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資本論を読む


マルクスの経済学研究の成果は、「資本論」という形で現われる計画であった。その全体像のうち、マルクスの生前に公表されたのは、今日「資本論」第一部とされている部分であり、残余の部分については、エンゲルスの手によって、「資本論」第二部及び第三部という形で公表されたことは周知のとおりである。

「資本論」の全体像をマルクス自身がどのように考えていたかについては、「経済学批判」のなかに、そのヒントが与えられている。それによれば、経済学批判の全体像は、資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場からなる。このうち、「経済学批判」では、資本の一側面が取り上げられただけであった。とはいっても、土地所有と賃労働についての指摘もかなり含まれてはいた。たとえば、地代は、資本がもたらす剰余価値の分け前に相当するという形で。

マルクスは、資本論の第一部を、「経済学批判」の続きだと言っている。「経済学批判」は、「資本一般」と題して、第一章「商品」、第二章「貨幣または単純流通」からなる。それは資本論第一巻でいえば、第一章「商品と貨幣」、第二章「貨幣の資本への転嫁」にほぼ相当する。ほぼ、というのは、マルクスはこの部分をかなり書き換えているからである。

現行の資本論第一巻は、「資本の生産過程」と題して、上述の部分に続いて、剰余価値及び資本の蓄積を対象としている。労賃についても、それとのかかわりにおいて論じられている。この第一巻に続いて、エンゲルスが編集した資本論の構成は、第二部が資本の流通過程、第三部が剰余価値と利潤との関係となっている。そして利潤の分け前として、利子と地代とが取り上げられる。

エンゲルスによる、現行資本論の最終的な姿が、果たしてマルクスの意図していたものと合致するかについては、議論のあるところである。すくなくとも、表面的な姿においては、エンゲルスによる資本論の構成は、マルクスが「経済学批判」のなかで予告していた構成とは異なっている。もっともこれは形式面から見た相違であって、実質的な内容は漏れなく取り入れられているという見方も成り立つ。

資本論の第一巻は、1867年に初版が出た。第二版は、1873年に出ている。マルクスの生前に出たのはこれまでで、あとはマルクスの死後、エンゲルスの手によって、第三版が1886年に、第四版が1890年に出された。このほか、フランス語及び英語の翻訳がマルクスの生前に出されている。これら諸版に付された前書き及び後書を、ここでは取りあげてみたい。

まず、第一版の序文。ここでマルクスは、「産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国に、ただその国自身の未来の姿を示しているだけである」といって、資本論が主な対象としているイギリスはじめ西ヨーロッパの経済の状態が、ドイツの未来の姿を示していると主張しているわけである。そのドイツは、「ほかの大陸西ヨーロッパ全体と同じに、ただ資本主義的生産の発展だけによってではなく、またその発展の欠けていることによっても苦しめられている」とマルクスは言う。ドイツでは、古い社会体制の残渣が人民を苦しめているのに加えて、発展しつつある資本主義の矛盾によって、二重に苦しめられているというわけである。この指摘は、資本論が始めて日本語で紹介された時にも、その日本についてあてはまっている指摘だった。

マルクスはまた、「ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の社会関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである」と言っているが、これはブルジョワ経済学者を念頭においてのことであろう。

そのブルジョワ経済学者について、マルクスは第二版後書の中で次のように書いている。「私利を離れた研究に代わって金で買われた喧嘩売りが現われ、とらわれない科学的研究に代わって弁護論の無良心と悪意とが現われた」と。この指摘は、現在でも有効だ。現在では、こうした悪意に加え、経済理論を振り回して、自分自身金儲けをしようと企む輩が跋扈しているのである。

マルクスがここで「私利を離れた研究」と言っているのは、スミスからリカードを経てジョン・スチュアート・ミルにつながるイギリスの良心的な研究者たちをさすのだろう。その彼らにしても、マルクスは手放しでほめるわけではない。かれらは、経済の分析を、もはや無視することのできなくなったプロレタリアートの要求と調和させようとして、折衷主義的にならざるを得なくなっているが、それこそはブルジョワ経済学の「破産宣告」だと言うのである。

マルクスは、資本論を展開するについて、ヘーゲルの弁証法を強く意識していた。それは資本論の目次からも見て取れることである。資本論は、商品の分析から始まって、貨幣の発生からそれの資本への転化という具合に進んでいくのであるが、それがヘーゲルの「大論理学」の展開の仕方とよく似ていることは、容易に見て取れるのである({大論理学は、存在の分析から始まり、その否定としての無、それら両者からの転化としての生成へと進んでいく)。しかしマルクスは、そうした論理展開での弁証法の適用ということには触れずに、自分の方法が、ヘーゲルのそれと根本的に異なっていることを強調する。つまり、ヘーゲルが観念論的なのに対して、自分は唯物論的だと言うわけである。マルクスは言うのだ、「弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくりかえさなくてはならない」と。

第三版には、エンゲルスが序文を付している。エンゲルスはこのなかで、マルクスのブルジョワ経済学批判を、エンゲルスなりの言葉で繰り返している。ブルジョワ経済学者は、「現金支払いとひきかえに他人から労働を与えられる人を、労働を与える人(Arbeitgeber)と呼び、自分の労働を賃金とひきかえに取られる人を、労働を受け取る人(Arbeitnehmer)と呼ぶような、あんなわけのわからない言葉を」使う人々だと言うのである。こうした言い方は、現代社会でもはびこっている。資本家は雇用を提供する人であり、労働者は仕事を貰う立場の人というわけである。

小生が資本論を始めて呼んだのは学生時代のことだ。それから半世紀を隔てて、再読しようという気になったのは、いわゆる冷戦後の資本主義万能の趨勢が強まり、グローバリゼーションという形で、資本主義経済が地球全体を一つの経済システムに組み込む勢いのなかで、その矛盾が最高度に激化し、マルクスが資本論のなかで予告していたような事態が現実味を帯びてきていると思ったからだ。そういう意味で、資本論はアップツーデートな本と言えるのだ。そんな資本論を、以後老人の頭を以て読み進んでいきたいと思う。かなりいびつになった頭であるから、読み違いもあるかもしれないが、それも一つの読み方だと思って、御寛恕を願いたい。なお、使用したテクストは、大月書店刊「普及版資本論」全五冊である。



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