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商品の呪物的性格と物象化:資本論を読む


資本論第一篇第一章第四節「商品の呪物的性格とその秘密」と題した部分は、のちに物象化論についての議論を巻き起こした。マルクス自身はこの部分で「物象化」という言葉は使っておらず、商品の呪物的性格あるいは呪物崇拝という言葉を使っているが、内容的には同じである。そこで物象化の概念的な内容を一応定義しておく必要があろう。

物象化とは、商品のうちに体現された人間の社会的な関係が、商品同士の物的自然的な関係として、人間の外部にあらわれるような事態を指して言う。具体的に言うと、商品の価値はそれに投与された人間労働の量をあらわすにもかかわらず、あたかも商品自体に内在する自然的な価値として現われるような事態をさす。それゆえ、(金属としての)金の価値は人間労働の量ではなく、それ自体がそなえる自然の価値だと思念される。これをマルクスは呪物崇拝と呼んだ。

呪物崇拝がもっとも典型的に見られるものとして、マルクスは「真珠やダイヤモンドには、真珠やダイヤモンドとしての価値があるのだ」というような主張をとりあげている。こうした議論に対してマルクスは、「真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見した化学者はまだ一人もいない」と皮肉っている。もし真珠やダイヤモンドの価値が、それらに内在する自然的な属性なのだとすれば、化学者がそれを発見しないわけがないというわけである。

マルクスの指摘にかかわらず、こうした呪物崇拝的な議論は、いまでも主流派経済学の中で市民権を得ている。主流派経済学者のほとんどは、自然界に存在する希少な資源は、その希少性によって価値を獲得するというような議論をいまだに行っているのである。かれらはそうした希少資源の価値が、その生産に費やされた(あるいは市場へ投入するについて必要となった)人間労働の量によるものだとは決して考えないのである。

呪物崇拝には、それなりの秘密があるとマルクスはいう。秘密というわけは、それが物事の正常な姿を表現しているのではなく、倒錯した姿を示しているにかかわらず、その倒錯が生じるについては、それなりの理由があるという意味である。その秘密は商品形態のうちに潜んでいるとマルクスは言う。すなわち、「商品形態は人間に対して人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、あるいは社会的な物になるのである・・・人間にとって諸物の関係という幻想的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的な関係でしかないのである」

こう言うことでマルクスは、呪物崇拝にはそれなりの根拠があると言っているのだと思う。それゆえ呪物崇拝は、滑稽な事態ではあるが、そう簡単にはなくならないというわけである。「商品世界の呪物的性格は・・・商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずる」ものだからである。

こうした事態をもたらす原動力になっているのが、商品世界の完成形態としての貨幣であるとマルクスは言う。貨幣形態こそが、「私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的に覆い隠すのである」

マルクスの呪物崇拝についての議論を、物象化論という形で取り上げたのはルカーチであった。以後物象化論は、疎外論と並んで、マルクスを哲学的に研究する際の基本的な枠組みとなった。ルカーチは、「歴史と階級意識」のなかで、物象化の議論を人間労働と関連付けながら論じた。労働は人間に内在する活動であるが、資本主義社会においては、その「人間独自の労働が、なにか客体的なもの、人間から独立しているもの、人間には疎遠な固有の法則性によって人間を支配するもの、として人間に対立させられる」(ルカーチ「歴史と階級意識」城塚登訳)

ルカーチのこの議論はしかし、物象化された人間労働を本来の人間労働からの逸脱と捉えている点で、疎外論と共通するものを含んでいる。つまり人間本来のあり方からの労働の疎外と捉えるわけだ。だから、ルカーチの物象化論は、疎外論と同じく、否定的な意義を持たされる。それも一方的な否定だ。それは否定されて本来の姿に戻されねばならない、というような議論になっている。

そう指摘しながら、物象化論にもっと積極的な意義を持たそうとしたのが日本の広松渉だった。広松は、物象化論をたんに否定的に論じるだけではなにも論じたことにはならないと考えた。物象化には必然的な側面もある。その必然的な側面をきちんと見るためには、ルカーチのように疎外論と同じ地平で論じていたのではいけない、と主張したのである。

広松は言う。物象化は「学理的省察者の見地にとって(fur uns)一定の関係規定であるところの事が、直接的当事者意識には(fur es)物象の相で映現することの謂いである~ただし、このさい、映現というのはあくまで学理的省察の見地から言ってのことであって、当事者にとっては直截に"物象の相で存在する"と言われうる」(広松渉「物象化論の構図)と。

事象を俯瞰できる第三者の目には一定の社会的な関係として見えるものが、その事象の直接的な当事者にとっては、物象の相で存在するように見える、ということは、物象化には必然的な性格があるということである。つまり、第三者からみれば、賃金労働というのは人間と人間との間の関係であるのが、当事者の目には労働力商品という物象化された形に見える、ということである。それはある意味必然的なことなのである。だから、それを単に言葉で否定するだけでは、何事も解決しない。物象化のメカニズムを本当に解決するためには、物象化を必然的なものとして生み出す社会的な関係全体を変えなければならない。そう広松は言って、社会革命の意義を唱えるわけである。

ベンヤミンは、マルクスの呪物崇拝の議論を踏まえて、独自のファンタスマゴリー論を展開した。ファンタスマゴリーという言葉はもともとマルクスが使ったもので、物の呈する幻影的な性格を意味していた。幻灯機で映し出された幻影的な姿をマルクスはファンタスマゴリーと言ったわけで、その意味では、付随的な意義しか持たされていなかったものだ。それをベンヤミンは、資本主義社会において物がとるユニークな形として積極的に位置付けた。資本主義社会においては、商品はその幻影的な性格によって、人びとの欲望を刺激し、経済を活性化させ、強いては社会を前に進めていく積極的な契機になるとしたのである。こうしたベンヤミンの議論と似たものは、ウェブレンやガルブレイスも主張するようになる。



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