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マルクスの労働過程論:資本論を読む


マルクスは剰余価値の分析を、労働過程の分析から始めている。剰余価値を生むのは人間の労働だからである。だが労働がそのまま剰余価値を生むわけではない。剰余価値を生むのは、商品としての人間労働である。その商品としての人間労働=労働力を、資本がその価値に応じた価格で買い取り、その使用価値としての労働を消費することで剰余価値を生みだすわけである。

その労働は、どのようなものか。マルクスは言う、「労働は、まず第一に人間と自然との間の一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活の為に使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然(天性)を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜在力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる」

こう言うことでマルクスは、労働が人間の本質的な営みであることを強調しているわけである。人間は本来労働するようにできている。人間とは労働する動物と定義してもよい。それだからこそ、人間の労働からムリなく価値を生みだすことができるのである。人間は労働に悦びを感じることもあるが、それは労働が人間の本質的な営みであるということに起因している。その労働への衝動を、資本はうまく制御することによって、無理なく剰余価値を生むことができる。それを可能にするのは労働の商品化なのである。資本は商品としての労働を買うことによって、それを自分の意のままに使用し、そこから余分な価値をかすめとることができる。本来労働者に帰属するものを合法的に略取することができる。それが資本主義を成り立たせている仕組みである。そうマルクスは考えるのである。

こうしたマルクスの考えは、若い頃の疎外論とその労働への応用である疎外された労働論の影を引きずっているものといえよう。剰余価値を生む出す源泉としての労働を論じるだけならば、なにも労働が人間の本性に根差したものだなどとあえて強調する必要はない。

そういうわけであるから、マルクスの労働過程論には中途半端なところがある。労働は、一人の人間によって孤立して行われることもあるが、大勢の人間が協力して行う場合もある。また一つの成果を上げるために、何人かの人間が分業することもある。また、単純な肉体労働とならんで精神的な労働もある。そういう労働のさまざまな側面が労働過程を構成しているわけであるが、マルクスはそうした側面には全くと言っていいほど目を向けていない。彼が労働過程論の中で言及しているのは、単純な肉体労働をモデルにしたものである。

そうした単純な肉体労働は、とりあえずは、人間による自然へのかかわりという文脈で語られる。そうした文脈の中で、人間は自然を変えると同時に、自分自身を変えていく。そこに人間性の発展の根拠がある、というような言い方をする。これは人間とその対象たる自然との間の関係に着目したもので、そうした意味では、労働の技術的過程ということができる。労働にはまた、協業とか分業とかいった人間同士のかかわりの部分もある。そういう部分を労働の組織的過程ということができる。労働を技術的過程と組織的過程に分類して、その相互の関係を立ち入って分析したのは芝田進午であったが、マルクスにはそういった視点はないといってよい。

また精神労働については、これはホワイトカラーと呼ばれる労働者たちの領域であるが、マルクスにはそうした概念はない。マルクスは、今日精神労働に分類されるようなものを、資本家の機能として考えているようである。労働者はあくまでも単純労働に従事するのであって、それは資本家の決めた秩序に従って行われ、労働者自らが自分の労働を制御するということは考慮されない。労働を組織し、制御するのは資本の機能として考えられている。したがって精神労働という概念は生じてこないわけである。

マルクスは言う、「労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。資本家は、労働が整然と行われて生産手段が合目的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具がたいせつにされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむをえないかぎりでしか損傷されないように、見守っている」

マルクスにあっては、労働過程の精神的な部分は資本の機能であり、労働者には単純な肉体労働しか割り当てられていないのである。

労働についてのこうした見方は、資本主義的生産の合理的注釈者を自認する連中にも共通している。こうした連中は、今日経営学と呼ばれる分野を開拓したのだったが、その経営学の確立者たちは、いかに人間労働を動かして、どれほど多くの利潤を生むかについて、最大の関心を払った。テーラー・システムとかフォード・システムとか呼ばれるものはその成果である。マルクスと自称科学的経営学者との違いは、マルクスが資本主義的労働に人間性の抑圧を見て憤慨したのに対して、自称経営学者たちは、労働者の膏血をいかにして搾り取るかについて、資本家たちに講釈して見せたことだ。



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