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機械と大工業:資本論を読む


マニュファクチャーから大工業への発展は、機械によって媒介される。マニュファクチャーは、文字通り人間の身体が生産の主体であった。人間が直接生産物を作るのであって、それに労働手段が、文字通り手段としてかかわっていたに過ぎない。主人は人間であって、労働手段はその付随物だった。ところが大工業は、この関係を逆転させた。機械が主人となって、人間はそれに付随するものとなった。主人は機械であり、人間は機械によって使われる従者になるわけだ。その関係を象徴的に表現したものとして、ルネ・クレールやチャーリー・チャップリンの映画がある。これらの映画(「自由を我らに」や「モダン・タイムズ」)は、20世紀のものであり、機械工業はマルクスの見ていたものとは比較にならぬほど発展していたが、人間が機械に使われるという点では、基本的な違いはないのである。

大工業のもう一つの重大な特色は、分業と協業が極限にまで進化し、それにともなって、生産を管理するための精神的労働という分野が発展したことだ。そのため、資本と労働との関係に大きな変化が生じた。マニュファクチャーの段階までは、資本と労働との関係は単純だった。生産の管理は資本がこれを全面的に受け持ち、労働はその指揮に従っていた。これを言い換えれば、経営と資本が未分化だったわけだ。ところが、大工業ともなると、複雑な生産体制の管理を、資本が一手に引き受けるわけにはいかなくなった。そこで、その仕事を受け持たせる労働者が必要となった。かれらは従来資本家が一手に握っていた経営の仕事を、分担して受け持つようになったのである。これによって経営と資本との分離が生じ、また経営における精神的労働の重要性が増した。ホワイトカラーの登場である。

分業と協業の飛躍的発展にともなって、経営機能の一部を労働者にまかせざるを得なくなる趨勢を、マルクスは次のように説明している。「単独のバイオリン奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる、資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである・・・彼(資本家)は、個々の労働者や労働者群そのものをたえず直接に管理する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本のもとで協業する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人)や産業下士官(職工長)を必要とする」

このようにマルクスは、資本主義的生産が大工業の段階に入ることで、資本と労働の関係に変化が生まれることを指摘するのであるが、ただ相対的剰余価値をテーマとするこの部分(第四編)では、それ以上詳細にわたることは止め、専ら機械と大工業が労働者に及ぼす否定的な影響について焦点をあてる。200ページ近くのボリュームが、そうした目的にあてられているのである。その文章を読むと、エンゲルスの若き頃の著作「イギリスにおける労働者階級の状態」を想起させられる。おそらくマルクス自身も、それを強く意識しながらこの部分を書いたのだと思う。マルクスには、労働者革命には必然的な理由があり、それは資本主義的生産が内在する反人間的な傾向が、労働者をして反逆せしめるからだという信念のようなものがあった。その信念は、先進資本主義国家、特にイギリスにおける労働者階級の状態を分析することで、強化されたのだと思う。

資本による労働者の搾取は、マニュファクチャーの段階でもひどかったのであったが、機械と大工業の段階になると、際限がないほど滅茶苦茶なものになった。その基本的な理由は、マニュファクチャーには自然による限界があったのに対して、機械による大工業にはそうした自然的な限界がなくなったということだ。機械は、原理的には一年中不休で動くことができる。というより、機械の有効活用という面ではその方が望ましいのである。というのも、機械というものは、動いていない時には何らの価値もないものであるし、また、なるべく早く減価償却したほうが、なにかと有利だからである。それゆえ機械による大工業にあっては、労働者を機械の都合にあわせて使うという衝動が生まれる。労働者の抵抗がない所では、労働者は際限なく搾取されることになると言って、マルクスは機械による大工業が生まれて以来の、労働者の搾取の経過を歴史的にたどっていくのである。

資本による労働力搾取の衝動は、資本主義経済に内在する傾向であるから、その非人間性を指摘して労働者を人間的に扱うことを、資本家の自発的な行為として期待することは馬鹿げているとマルクスは考える。資本家は、外部の力によって強制されない限り、労働者を人間的に扱うことは無論、その待遇を改善しようともしない。だから、労働者の状態を少しでもましにするためには、外部から資本家を強制しなければならない、というのがマルクスの基本的な立場である。その外部の力としてマルクスが重視しているのは、労働者の反逆と国による強制である。とくに工場法を通じて、ひどい搾取を制限してきたイギリスの事例が丁寧に紹介されている。イギリスでは、生産現場である工場を舞台にして、労働者の労働条件をめぐる、資本と労働との戦いが展開されてきたのであるが、その戦いに、国が労働者保護の立場に立たざるを得なかったのは、あまりにもひどい搾取が横行すれば、国民の大多数を占める労働者階級の人間的な劣化が進み、ひいては国家としての存立があやうくなるという危機感が働いたためかもしれぬ。もっともマルクスはそこの部分には言及しないで、政府と資本家とが労働条件をめぐっていたちごっこを繰り返してきた経過を説明するだけであるが。

この戦いにおいて資本家は、いつもその実行可能性の低さを理由にして反抗を繰り返したのだが、実際制限を課されると、すぐにそれに適応して、引き続き剰余価値の増大に励んで来たと言って、資本家の反対にはまともな根拠がないことを指摘している。とにかく、資本家は外部から強制されない限り、自分から労働条件を改善する意図はないとマルクスは考えるのである。

こうしてみると、マルクスの時代の労働問題とは、労働者保護のためいいかに資本を規制するかということをめぐったものであった。そうした傾向は、20世紀の後半まで続いた。ところが20世紀の末近くになって、労働をめぐる規制緩和というものが叫ばれるようになった。叫んでいるのは新自由主義と称される連中で、日本にもいる。この連中は労働の規制緩和を通じて、新しいビジネスチャンスを狙っている。なかには自ら大臣となって規制緩和を進め、それによって生まれたビジネスチャンスを自ら活用してぼろ儲けをしているようなちゃっかりした人間もいる。世の中の風向きが幾分変わってきたことを実感させられるのである。 



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