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剰余価値と利潤:資本論を読む


マルクスが剰余価値と呼ぶものを、主流派の経済学(リカードやミルに代表される)は利潤と呼ぶ。どちらも物理的には、つまり量的には同じものである。だが、その意義は違うとマルクスは主張する。剰余価値は、労働力の再生産に必要な労働=必要労働を超える剰余労働によってもたらされる。だから、剰余価値率は剰余労働/必要労働となる。これに対して主流派経済学のいう利潤率は、労働を含めた投下資本に対する利潤の割合のことをいう。

主流派経済学の利潤率の定義は、剰余価値/生産物価値という形になる。生産物価値には、労働への支払い部分である可変資本のほか、生産手段や原料などの不変資本も含まれる。そうした投下資本全体に対比しての剰余価値部分を、主流派経済学は利潤と呼ぶ。これに対してマルクスは、投下資本のうちの不変資本は生産物に新たな価値を付け加えることがないので、剰余価値率を計算するときには除外すべきだと考える。

主流派経済学のやり方をマルクスは、資本・労働関係の独自な性格を覆い隠すものだと批判する。このやり方だと、労賃は労働の対価として、利潤は資本の分け前として、同じ平面で比較されることとなる。利潤は、剰余労働のみがもたらすのではなく、投下資本全体から生み出されるものだということになる。利潤はだから、可変資本との対比で語られるのではなく、不変資本を含めた総投下資本=生産物価値との対比で語られなければならない、ということになる。

その結果、必要労働と剰余労働は対立関係においてではなく、共同関係においてとらえられる。これら二つは、「労働者と資本家とが生産物をそれのいろいろな形成要因の割合によって分け合う一つの共同関係という間違った外観」を呈するというのである。

しかし、剰余価値は生産物価値との関係において比較されるのではなく、あくまでも必要労働=労働力の価格との間で比較されるべきなのである。必要労働を超えた部分、それが剰余労働である。必要労働の部分は労働者が自分の再生産に必要な支出にあてられる。剰余労働の部分は資本家の支配下におかれるのである。

つまり資本と労働とは、共同関係ではなく対立関係にある。主流派の経済学は、資本と労働とが共同して生産物を生み出し、その価値を分け合うというふうに説明したがるが、真実はそうではない。資本は労働者から剰余労働を引き出させ、それを自分のものにする。つまり資本は労働力の略取者だというのがマルクスの主張である。

だから資本は、社会全体の成員が、資本家と労働者という二つの階級からなることを熱望する。中途半端な人間は存在せず、あらゆる人間が資本のために剰余価値を生みだすような社会が資本の理想である。「資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである」

資本はなぜ利潤を生むのか。この問題について主流派経済学はまともに答えていないとマルクスは言う。リカードは、剰余価値の源泉については少しも気にかけていない。かれの目には、剰余価値として利潤は、「社会的生産の自然的形態に見えた資本主義的生産様式に固有な一事象として取り扱っている」。つまり利潤は自然法則の一環として、あるいは神の恩恵として、無条件に与えられたものだというわけである。

リカードの後継者、たとえばジョン・スチュワート・ミルは、利潤が剰余労働から生まれると認めた。その理由をかれは、「利潤は、労働が、労働の維持に必要であるよりも多くを生産する」ことに求めている。これは一見マルクスの剰余価値の概念に似てはいる。しかし、これをさらに詳細に説明して、「なぜ資本が利潤を生むかという理由は、食物や衣服や原料や労働手段が、それらの生産に必要な時間よりも長い時間もつということである」とすることで、利潤つまり剰余価値の源泉に、労働力以外の不変資本まで含め、それらの不変資本が、それの価値をこえて働くことに利潤の源泉があるというように考えているのである。

かれら資本を代表する主流派経済学者が、利潤つまり剰余価値の源泉について、あまり深入りしたくないかのような態度をとっているのは、そうすることが非常に危険だという「正しい本能を持っていた」からだとマルクスは皮肉っている。

今日の主流派経済学も利潤の源泉が労働力にあるとは考えない。労働力への支払いは、生産手段や原料と同じく投下された資本の一つにすぎない。それらすべての投下資本が働いた結果生産物が生まれ、その生産物を売ることで利潤が生まれる。利潤はさまざまな要素の複合した結果なのであって、労働力が唯一の源泉ではない。利潤が生まれるためには、生産物が売れなくてはならないが、その価格は需要と供給の関係によって決まるので、なにも労働力の価格だけできまるのではない、そう考えるわけである。この考えによれば、利潤は、生産物の生産に実際に要したよりも多くの価値を生産者が得るということになる。しかし無からは何も生じないわけであるから、不変資本が剰余価値を生まないとすれば、買い手が売り手に対して余計な金を支払っているということになる。マルクスによれば、労働者が資本に対して余計な貢献をしているということになるのである。

なお、マルクスは、剰余価値と利潤を混同することで、同じ剰余価値率が非常に違ったいろいろな利潤率に表されることや、一定の事情のもとでは、いろいろに違った剰余価値率が同じ利潤率で表されうるということを説明できないと言っているが、議論の詳細については、後の部分のために残している。



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