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マルクスの功利主義批判:資本論を読む |
ジェレミー・ベンサムといえば、功利主義の先駆的思想家という位置づけを付与されている。そのベンサムをマルクスは、「生粋の俗物」、「十九世紀の平凡な市民常識の面白くもない知ったかぶりで多弁な託宣者」と呼んだ。 マルクスのベンサム批判は、いわゆる労働財源を取りあげた部分でなされるのであるが、労働財源というのは、社会の生み出す価値のうちで、労働者に割り当てられるべき部分のことをいう。その部分をベンサムは、資本家の剰余価値をなるべく減らさない程度に、できれば労働者の再生産に必要な最低限のレベルに抑えるのが望ましいと主張した。そのレベルでなら、労働者はなんとか生きていけるのだし、資本家は資本家で自分に相応しい生き方ができるからだ。つまり、双方ともに幸福になれる。功利主義のスローガンである「最大多数の最大幸福」とはそういうことだというわけである。 ベンサムがこのように主張するわけは、人間には、自分の才覚で利潤を生みだすタイプと、何らの才覚も持たないで、ただ汗水たらして働くしか能のないタイプとがあって、前者は自分の生み出した富を享楽し、後者はつつましい生活に満足するように出来ていると考えるからだ。つまりベンサムは、資本主義的生産様式が生み出した資本と労働との関係を、永遠不変な人間性にもとづいたものだとし、そのことによって、資本家と労働者とのそれぞれの生き方に普遍的な意義づけをするのである。 マルクスは言う、ベンサムは、「まったく素朴に割り切って、近代の俗物、特にイギリスの俗物を、標準的な人間として想定する。このおかしな標準的人間とその世界とにとって有用なものは、それ自体として有用なのである。次に彼はこの尺度で過去と現在と未来とを判断する。たとえばキリスト教は『有用』である。なぜならば、キリスト教は刑法が有罪とする非行を宗教的に禁止するからである。芸術批評は『有害』である。なぜならば、それは立派な人々がマーティン・タッパーを味わうのを妨げるからである、というような具合である」。マーティン・タッパーとは、ベンサムと並んで、イギリスでなければ製造できないような俗物の詩人であるという。 ベンサムの功利主義説のミソは、労働者は、本来資本家のものであるものを奪うべきではないということだ。資本家を犠牲にして労働者が豊かさを求めることは許されない。なぜなら、資本家にも幸福を追求する権利があるからだ。他人の権利を侵害して自分の欲望を満足させようとすることは、ベンサムによれば、人間性の本質に反しているのである。それが「最大多数の最大幸福」の意味するところである。「最大多数の最大幸福」とは、社会のなかの総ての成員が、他者の利益を犯さない程度に、自分の利益を図ることによってもたらされるものなのである。 こうした功利主義の考え方は、資本主義的生産様式に非常に適合しているので、その後も、主流派の経済学の基本的な指導原理となったばかりか、倫理学や政治哲学の指導原理ともなった。経済学でいえば、ピグーによって定式化された「厚生経済学」が、功利主義の原理をわかりやすく示している。 「厚生経済学」の原理をわかりやすくいうと、社会の富の増大は、社会の成員のいずれの部分の不利益をももたらさないかぎり、好ましいというものである。要するに富の追及は、他人の犠牲のうえになされてはならないということである。ありていに言えば、労働者の分け前は、社会の富の増大に応じて増大する余地はあるが、資本家の犠牲を求めてはならない、ということである。そうすれば、資本家も労働者も、どちらも社会全体の富の増大の恩恵を受けることができるというわけである。この考え方は、今日の俗流経済学者も、いわゆるトリクルダウン説というかたちで奉戴している。富者をますます富ませば、その恩恵が貧者の上にもこぼれ出るという説である。これがかならずしも実態に合致しない説であることは、いくらずうずうしい資本弁護論者でも認めざるを得ないところではないか。 こうした功利主義の考え方は、倫理学や政治哲学にも応用されている。たとえばロールズの政治倫理思想は、今日の政治哲学の主流をなすものであるが、それは、社会全体の福利の向上は、特定の成員の犠牲を伴ってはいけないという思想である。要するに他者の犠牲のうえに、自分の福利の向上を求めてはならないという主張であり、現状を所与のものとして絶対視する立場である。政治思想で現状といえば、政治的資源が配置されている現在の状態をいうが、それは財産権の至上性を合言葉にして、持てるものの権利を保障することを目的としている。資本主義社会における財産権とは、基本的には資本家の財産処分権をさすわけであるから、それを保護することは、資本主義的生産様式を、永遠に持続させることを目的としていると言える。 ともあれベンサムが定式化した功利主義の考えは、マルクスの軽蔑にかかわらず、今日に至るまで、主流派の経済学や政治思想を根本的に規定してきたのである。それは功利主義が資本主義的生産様式に非常に適合していたからだ。経済学者の中にも、ケインズのように再分配を重視するものはおり、そういう学者は、資本家に一定の犠牲を求めたりもするのだが、その求め方にも節度があった。基礎的な所得には課税を控え、付加的な所得に対して累進的な税率をかけるといったやり方である。そうした手段を通じて所得を再配分し、そのことで有効需要を創出し、もって経済を活性化すれば、資本家にも利益がもたらされる。そういう理屈で資本家に一定の犠牲を求めたのである。したがってケインズといえども、功利主義の大きな枠組からは、そう大きくは逸脱していなかったと言えよう。 |
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