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資本の本源的蓄積:資本論を読む


資本主義的生産は、商品生産者たちの手の中に相当の資本と労働力とがあることを前提としている。資本とは生産のための手段とか材料のことであり、労働力はそれに結合されることで剰余価値を生みだす源泉である。この両者がなければ資本主義的生産はなりたたない。経済学は、神学が原罪を論じるのと同じような具合に、これらの起源を無限の過去の物語として論じる。ずっと昔のそのまた昔に、一方では勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方には怠け者で、あらゆる持ち物を、又それ以上を使い果たしてしまうクズどもがあった、というわけである。

これに対してマルクスは、資本主義的生産の起源を、ある歴史的に特定できる過去の時点に求める。その時点で起きたことを資本の本源的蓄積と呼ぶ。この本源的蓄積の過程を通じて、資本主義的生産に必要な資本の蓄積と自由な労働力の大量生産とが実現し、それが資本主義的生産を可能にしたとするのである。

資本主義的生産にとってより重要なのは、自由な労働力が大量に存在することである。なぜなら資本主義的生産の本質は剰余価値の生産であり、その剰余価値を生みだすのは自由な労働力だからだ。自由なというのは、「自営農民などの場合のように生産手段が彼らのものであるのでもなく、彼らはむしろ生産手段から自由であり離れており免れているという二重の意味でそうなのである」。自分の労働力以外売るものがない、それが自由な労働者なのである。

資本主義的生産に先立つ時代には、生産と労働とは分離されておらず、労働者は生産者でもあった。というか、どんな人も小規模な土地を持っていて、その土地を耕しながら、自分の生活に必要な資源の大部分を土地の生産物からまかなっていた。農業以外の生産者、たとえば手工業者たちは、農業主体の社会にあって、農業の余剰生産物を享受するような形で、社会にとっての補完的な役割を果たしていた。どの層の人びとも、基本的には小規模な生産者であった。かれらは生産手段と密接に結びついており、その意味では、自分の労働力以外に何も持たない自由な労働者とはまったく異なっていた。そういう人々からなる社会では、資本主義的生産は成り立たない。その例としてマルクスは、自由な労働者が存在しない植民地において、いくら資本があっても資本主義的生産が成立しない事情を、具体的に説明している。

それ故、資本主義的生産のための本源的蓄積にとって、もっとも重要なのは、自由な労働力がいかにして生まれてきたかということである。マルクスの本源的蓄積にかかわる議論は、この問題をめぐってのものである。

マルクスは例によってイギリスの歴史を実例として取り上げる。自由な労働者の創造は、封建的な社会で中心を占めていた小生産者たちを没落させ、かれらをあらゆる生産手段から自由にして、自分の労働力を売るほかない境遇に追いやることでもたらされた。その手段は国によってざまざまだが、暴力的な面では共通しているとマルクスは言う。小生産者たちを暴力的に生産手段から剥離すること、そこに本源的蓄積のポイントがあった。

イギリスの場合、自由な労働力の生産は、いわゆる囲い込みによってもたらされた。高校の世界史の教科書でも語られている通り、イギリスでは、この囲い込みによって、人間が羊に追い立てられ、自分の労働力しか売る物のない自由な労働者に変身したのである。これら大量の自由な労働者の出現が、資本主義的生産を大規模に可能にしたのであった。そのプロセスをマルクスは詳細に描写している。マルクスがとくに着目しているのは、農民の小規模な農地が収奪されたばかりか、農民が伝統的に持っていた共同地が組織的に横領されたということである。「組織的に行われた共同地の横領が、かの十八世紀に資本借地農場とか商人借地農場とか呼ばれた大借地農場の膨張を助けたのであり、また農村民を工業のためのプロレタリアートとして『遊離させる』ことを助けたのである」

一方、工業分野における資本の担い手、つまり産業資本家については、高利資本と商人資本から生成したとマルクスは言っている。かれらが大規模な資本家に成長するについては、国家による暴力的な手段が臆面もなく行使された。どの国においても、とくにキリスト教国ではそうだが、国家が資本の本源的蓄積に多大な役割を果たしているのである。マルクスはキリスト教研究家ハウィトの次のような言葉を引用している。「いわゆるキリスト教人種が、世界の至る所で、また自分が隷属させることのできたすべての民族にたいして、演じてきた蛮行と無法な暴行とは、世界史上のどの時代にも、またどんなに野蛮で無教育で無情で無恥な人種のもとでも、比類のないことである」

資本の蓄積という面では、植民地からの収奪も大きな役割を果たしたとマルクスは指摘する。ヨーロッパ諸国による植民地からの収奪は、植民地における資本主義経済の発展には結びつかなかったが、そこから得られた富が、母国における資本の集積をもたらしたと見るのである。

本源的蓄積の以上のような傾向は、わが日本でも例外なく見られる。日本における本源的蓄積については、マルクスの影響を強くうけた経済学者たち、講座派と呼ばれる学者たちが分析した。かれらに共通する見解は、日本の本源的蓄積は明治以降に本格化し、内容的には農民の収奪と、国家による資源の強権的な管理という形をとったと見るものである。

維新以前の日本社会は、基本的には農業社会であり、小規模生産者が大部分を占めていた。しかも封建的な割拠の上に立った分散的な社会であって、全国規模の市場は成立していなかった。それが維新以降、絶対主義国家が成立して、全国が単一の市場に統合され、新政府の富国政策によって、資本主義的な生産が目ざされた。その場合に、新政府は農村を収奪することで、資本の蓄積を図る一方、大量の農民を没落させることで自由な労働者、プロレタリアートを創出していった。

農民の収奪は地租を通じて行われたが、その負担は封建時代の年貢よりも過酷だった。封建時代の年貢は、四公六民とか五公五民とかいわれるが、明治初期の地租の負担は実質六公四民という過酷なものだったのである。そのために負担の重みで破産する小農民が続出し、土地の集積が進む一方、自由な労働力が大量に生まれた。この二つの要因が相乗的に働いて、日本における資本の本源的蓄積が進んだのである。

維新政府は又、国家が主体となって多くの工場を作り、資本主義的生産の広がりをめざした。国営企業が軌道にのると、政商と呼ばれる輩が格安で払い下げをうけ、濡れ手で泡のような形で経営を引き継いだ。日本の場合には、資本主義的生産の確立に国家が果たした役割が非常に大きいのである。この体質は近年に至るまで、日本の資本主義経済の大きな特徴であり続けていたのである。



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