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資本論第二巻へのエンゲルスの序文


資本論全三巻のうちマルクスが生前に刊行したのは第一巻のみで、残された部分は盟友のエンゲルスの手によって編集・刊行された。第二巻の刊行は、マルクスの死後二年目の1985年、第三巻の刊行は更にその九年後の1894年のことである。第二巻の刊行にあたってエンゲルスは序文を付し、マルクスの残した草稿をどのように編集したかとか、資本論全体についてのマルクスの構想などについて説明している。

それによれば、エンゲルスはなるべくマルクスの文章をそのままに生かした形で編集し、自分の文章はできるかぎり抑制したという。そのために、残されていた膨大な草稿群のうちから、テーマごとにもっとも完成度の高いものを本文とし、それをつなぎ合わせることで、全体を構成した。なかには文章が練れていないところもあり、それは完成稿に至る過程での思索のあとを感じさせるものだが、そういうものを含めて、最大限マルクスのナマの文章を生かしたいというのである。

資本論全体の構成については、マルクス自身が「経済学批判」のなかで、経済学研究の道筋という形でヒントを与えていた。それと比較すれば、資本論全三巻の構成は、かなり違ってきている。経済学批判では、資本主義的経済の体制を、資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場の順に考察するとしていた。資本の次に土地所有がきているのは、重農主義の影響がマルクスの時代の経済理論にいまだ大きな影を落としていたことを反映しているのであろう。

ところが資本論の構成は、第一巻が資本の生産過程、第二巻が資本の流通過程、第三巻が資本主義的生産の総過程と題して、利潤率の平均化とかその傾向的低下の法則とか、利潤の地代や商業利得や利子への転化についての分析についてあてられている。つまり資本論全体が、剰余価値を生むものとしての資本を中心に展開されるかたちになっており、資本の様々な働きを、剰余価値というものを中心軸にして、統一的な視点から考察している。その視点はマルクスのものであると同時に、マルクスの意図を受け継いだエンゲルスの視点でもあったわけだ。

資本論全三巻を通じてもっとも大きな意義を持つのは第三巻だとエンゲルスは言っている。今日われわれが資本論を論じる時には、価値形態論に始まる資本の生産過程を論じた第一巻がもっとも話題になる傾向が強いが、エンゲルスは第三巻こそが、資本論のハイライトだと言っているのである。第三巻は、上述のように、剰余価値がさまざまな分野の人々に分配されるプロセスをテーマにしているわけだが、利子生み資本や地代を含めて、すべての利得の源泉が剰余価値にあるということを、第三巻はあますところなく明らかにしている。したがって第三巻こそ、資本主義経済の本質をもっとも十全な形で語っている部分だというのがエンゲルスの見方である。その見方に立ってエンゲルスは次のように断言するのだ。「この第二部の輝かしい諸研究も、それらがこれまでだれも踏み込んだことのない領域で到達したまったく新しい成果も、ただ第三部への前置きでしかないのであって、この第三部こそは、資本主義的基礎の上での社会的再生産のマルクスによる叙述の最終の成果を展開するのである」

ところでエンゲルスは、この序文のなかで、ロートベルトゥスの批判を行っている。ロートベルトゥスへの批判をエンゲルスは「哲学の貧困」ドイツ語版への序文の中でも取り上げている。資本論第二部と「哲学の貧困」ドイツ語版は同じ1885年に刊行されているから、この時期のエンゲルスが、ロートベルトゥスを強く意識していたことがうかがわれる。

ロートベルトゥスは、いまでは忘れられた思想家に属するが、エンゲルスの時代には、労働価値説の唱道者として一定の影響力を持っていたようである。そのロートベルトゥスが、マルクスの労働価値説は自分の説を剽窃したものだと言いふらし、それを信じる者も一定程度いたので、エンゲルスは放置できないと考えたのであろう。二度の機会をとらえて、その主張の荒唐無稽さをあばきだしたのである。

エンゲルスの主張は二点ある。一つは、労働価値説はロートベルトゥスが言い出したことではなく、アダム・スミス以来の主流派の経済学の常識になっていたのであって、マルクスはその主流派の考えを受け継いだうえで、彼独自の剰余価値論を展開したというものである。もう一つは、ロートベルトゥスの労働価値説は、かなり硬直した前提にたっており、商品に投じられた労働量がそのままその商品の価格として実現されると考えたのだが、実際はそんなに単純なものではなく、商品の価格は競争を通じて実現されるとした。その競争の過程で、生産力の高い生産者は平均よりも有利に売ることができるし、逆の場合は逆の結果になる。そういうさまざまな要素が平準化されて、利潤の平均化ということがおきるとマルクスは考えた。そうエンゲルスは言って、マルクスに比較してのロートベルトゥスの理論のずさんさをあざ笑うのである。

マルクスは、剰余労働のもたらす剰余価値の本質をよく理解し、その剰余価値こそが「マルクスによってはじめて発見されたまったく独特な諸法則に従って、利潤や地代という特殊な転化した諸形態に分かれるのである。これらの諸法則は第三部で展開されるのであって、そこではじめて、剰余価値一般の理解から利潤や地代への剰余価値の転化の理解に、したがって資本家階級の内部での剰余価値の分配の理解に到達するためには、どれだけの中項が必要であるか、が明らかにされるであろう」

こうエンゲルスは言って、剰余価値の問題は、ロートベルトゥスが考えているように単純なものではなく、資本主義の秘密が全面的に解き明かされるための鍵を内在させていると強調するのである。資本主義システムとは、労働者の剰余労働にもとづく剰余価値に、全面的に寄生するシステムなのだ、というのが、マルクスを踏まえたエンゲルスの見方なのである。



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