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社会的総資本の再生産と流通:資本論を読む


社会的総資本は、個別資本を総和したものである。だからその運動は、個別資本の運動と基本的には違ったものではないが、しかし個別資本だけを見ていては見えないものが見えて来る。たとえば、資本を形成しない商品の流通である。資本を形成しない商品の流通とは、労働者による消費と資本家による私的消費を含んでいる。これらの消費は、個別資本だけを視野に入れている限りは、前景には出て来ずに、背景に沈んだままである。ところが社会的総資本を論じる時には、総資本の循環の不可欠な要素となる。

マルクスは言う、「社会的総資本の循環は、個別資本の循環には入らない商品流通、すなわち資本を形成しない商品の流通をも含んでいるのである」。それゆえ社会的総資本の運動は、再生産と流通からなる。この流通は、個別資本の循環における商品の流通過程とは異なる。資本の循環における商品の流通過程は、商品が貨幣に転化するプロセスをさしていたが、ここでいう流通は、労働者及び資本家による私的な消費のための商品の流通をさしてる。

社会的総資本も、個別資本の場合と同じように、資本は不変資本と可変資本に分かれる。不変資本は生産手段であり、可変資本は労働力である。資本家はこの二つを結合させて商品の生産を行う。その結果、労働力は自分自身の価値(可変資本に対応する)に加えて、剰余価値を生みだす。これを前提として、ある国の一年間の総生産(再生産)を分析すると、それは不変資本の価値補填分cプラス労働力の価値(可変資本分)vプラス剰余価値mからなる。これを数式で示せば、c+v+mになる。これが一年間における社会的総資本の総計である。これを詳しく分析すれば、一国の国民所得の概要が明らかになるわけである。

マルクスは、以上のような前提に立って、社会的総資本の運動をことこまかく分析していく。そのやり方は、数式を駆使しながら精緻を極めたもので、数学的なリテラシーに不足のある小生などには小うるささを感じさせるほどである。それはともあれ、マルクスは自分なりの社会的総資本の循環論を展開する前に、例によって先行する経済学説をとりあげている。

まず、重農学説。マルクスはケネーの学説を高く評価するのだが、その理由は、労働こそが価値を生みだす源泉であるとケネーが正しく認識していたことにある。ケネーの説は、表向きは、農業分野だけが富を生み出すという主張なのだが、ケネーの時代には、生産的な労働は農業分野に集約されていたのであって、それ以外の労働は、価値を生まない非生産的な労働と見てよかった。そうした非生産的な分野を除外して農業労働だけに生産的な意義を認めたのは、ものごとを単純化したもので、したがってわかりやすい主張だとマルクスは評価するのである。

アダム・スミスは、一国の総生産物の価値は労賃、利潤、地代に分解されるとする。どんな社会においても、これら三つが商品価値の構成部分として含まれる。労賃と利潤と地代とは、すべての収入の、またすべての交換価値の、三つの源泉である。しかしそれら三つの構成部分は、どこから生まれて来るのか。アダム・スミスは、労働がその源泉だとは気づいていたが、それを積極的に打ち出すことはなかった。かれの主な関心は、これら三つの構成部分が一国の価値の源泉であり、それ以外の収入はすべてこの三つのいずれかから派生したものだということにある。例えば、王や聖職者や教授や売春婦は、以上三つのいずれかから収入を得るのであるが、それはかれらの果たしている社会的な役割に応じた正当な収入ということになる。この考え方では、労働者が受け取る賃金も、王や聖職者が受け取る収入と基本的には違わなくなり、資本主義的生産様式の基本的な特徴が覆い隠されてしまうとマルクスは批判するのであるが、とりあえずは、アダム・スミスの学説を、社会的総資本の運動を説明する文脈のなかで位置付けているわけである。マルクスのことであるから、社会の富の源泉は、労働力にあるとしたうえで、王や聖職者を始めとした派生的な収入は、剰余価値の分け前だと、アダム・スミスに言ってほしかったのだと思う。

さて、社会的総資本の循環であるが、これについてマルクスは、一国の生産を、生産手段の生産と消費手段の生産とに大別したうえで、分析を進める。一国の総生産物は、基本的には人間の再生産のために必要な消費財と、それを生産するために直接必要な生産手段からなっていると考えるわけである。それ以外に、建築物や土木構造物といったものもあるが、それらは生産のための社会インフラとして、生産手段の中にくくられるのである。

生産手段、消費手段いずれの分野においても、資本は不変資本と可変資本に分かれる。これらによって生産される商品の価値は、c+v+mとして記述される。このうちc(不変資本)の部分は生産手段の補填部分をあらわしており、したがって新たな価値を付け加えるわけではない。新しく付け加えられる価値は、v+mである。これは、労働者が自分の再生産に必要な消費財と、資本家が剰余価値の一部を割り当てて購入する消費財からなる。

マルクスは、例によって単純再生産のモデルから出発する。単純再生産においては、剰余価値はすべて消費材の購入のために費やされ、したがって前年の生産規模がそのまま引き継がれる。これは非現実的な想定ではあるが、ものごとの仕組みを理解するためには、便利な想定なのである。

マルクスは次のようなモデルを提示する。
Ⅰ 生産手段の生産
  資本・・・・・4000c+1000v=5000
  商品生産物・・4000c+1000v+1000m=6000
生産物は生産手段として存在する。
Ⅱ 消費手段の生産
  資本・・・・・2000c+500v=2500
  商品生産物・・2000c+500v+500m=3000
生産物は消費手段として存在する

このモデルを用いて、社会的総資本の運動を説明しようというわけである。部門Ⅰの生産物はすべて生産手段として存在し、部門Ⅱの生産物は消費財として存在する。また、剰余価値はすべて消費される。こういう前提の上で考察すると次のようになる。

まず部門Ⅱについて。その500v+500mについては、すべて消費財の購入に費やされるわけであるから、この部分はこの内部だけで完結する。一方2000cについては、これはいったん貨幣に転換したうえで生産手段の現物にあてられねばならない。その貨幣額は、部門Ⅰの1000v+1000mに対応している。形式的に言えば、部門Ⅰの1000v+1000mがそのまま部門Ⅱの2000cと交換されるわけであるが、その交換は、資本主義的商品生産のもとにおいては、貨幣によって媒介されるわけである。

これで部門Ⅱの全部と、部門Ⅰの三分の一とが、すっきり説明できた。残るは部門Ⅰの4000cであるが、これは部門Ⅰの資本家によって、生産手段の補填分にあてられる。

以上を通じて言えることは、単純再生産の前提のもとでは、労働者は労賃という形の可変資本を収入として消費手段を買い、資本家は労働者の生み出した剰余価値を自己のものとして取得し、それでもって消費手段を買うということであり、一方、その消費手段の生産のために使われた不変資本は過不足なく補填されるということである。それゆえ生産の規模は縮小されずに、ずっと継続されていくことができる。

こうしたマルクスの一国経済にかかわる巨視的分析は、今日の経済学における国民所得分析のさきがけとなるものである。国民所得分析は、生産、所得、支出の三部面から説明されるのが普通だが、そのうち支出国民所得がマルクスの以上の分析に相当するといえる。支出国民所得は、支出を消費と投資にわけるが、投資には設備投資と在庫が含まれる。在庫の概念は、マルクスにもないわけではないが、単純なモデルでは、考慮にいれていない。



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