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商業部門における労働:資本論を読む


商業部門における労働をマルクスは「商業労働」と呼んでいる。商業労働の内実は流通をすみやかに実現するということである。ところでこの流通というプロセスは、それ自体では剰余価値を生まない。剰余価値を生むのは、商品生産に投ぜられた労働であって、流通に投ぜられた労働は、それ自体としては剰余価値を生まないのである。商業労働が剰余価値を生まないのであれば、それは剰余労働を含んでいないのだろうか。含んでいるのである。商業労働といえども、その価格すなわち労賃は、その(労働力の)生産に必要な費用である。ところが実際に行われる労働は、その労賃、すなわち労働の支払い部分を超えて行われる。この超過の労働部分が剰余労働にあたる。しかしこの剰余労働は、新たな剰余価値は生まない。では、剰余労働はどんな働きをするのだろうか。それは、剰余価値は生まないが、その価値の実現に寄与するというのがマルクスの考えである。生産と生産物の価値の実現とは異なったレベルの事象だ。剰余価値が実際に実現するためには、売れなければならない。売れてはじめて剰余価値としての意味を持てる。その売るためのプロセスが流通の機能なのだが、その機能を通じて剰余価値が実現される。商業労働は、その剰余価値の実現を媒介するというのがマルクスの考えなのである。

商業部門の利潤は、生産部門が生産する剰余価値を源泉としている。単純化して言うと、生産部門の生産した利潤の分け前にあずかるということだ。実際には、分け前としての利潤は、生産者と流通担当者を合わせての、生産資本・商業資本全体を通じての平均利潤ということになり、具体的には、両者を通じて共通の一般的利潤率にもとづいた利潤が分配される。商業資本は、この一般的利潤をあてこんだ価格、すなわち生産価格から平均利潤を控除した価格で商品を仕入れ、それに平均利潤を加えて販売することによって、自分の分け前である利潤を実現する。その実現の過程に商業労働がかかわるわけである。

マルクスは言う、「商業資本は、ただ価値の実現という自分の機能によってのみ、再生産過程で資本として機能するのであり、したがってまた、機能する資本として、総資本によって生産された剰余価値から分け前を引き出すのである。個々の商人にとっては、彼の利潤の量は彼がこの過程で充用できる資本の量によって定まり、そして彼の店員の不払い労働が大きければ大きいほど多くの資本を売買に充用することができる。このような店員たちの不払い労働は、剰余価値をつくりだしはしないとはいえ、商業資本家のために剰余価値の取得をつくりだすのであって、結果から見ればこの資本にとっては同じことである。だから、この不払い労働はこの資本にとっては利潤の源泉なのである」

マルクスはこう言ったうえで、「労働者の不払い労働が生産資本のために直接剰余価値をつくりだすのと同様に、商業賃金労働者の不払い労働は商業資本のためにこの剰余価値の分け前をつくりだすのである」と概括する。

ところで、商業労働者の労賃は、商業資本にとっては可変資本であり、したがってそれに対して利潤を受け取るべき源泉である。また、流通にはさまざまな費用がかかる。たとえば事務所とか倉庫といったものだ。そういうものへの投資は、商業資本なりの不変資本になる。流通過程を全般的に見ると、仕入れた商品の代金のほかに、労賃としての可変資本と流通経費としての不変資本を含んだものが、前貸し資本を構成する。利潤はこの前貸し資本に対して計算されるので、当然可変資本つまり労賃も利潤計算の基礎になる。そこは生産資本の場合と異ならない。両者を通じて労賃を含めた前貸し資本全体が、平均利潤の成立にかかわるわけである。

マルクスが商業という言葉で取り上げているのは、実質的には流通部面だけである。流通は商品の再生産過程の一部であるから、それ自体としての独立性は弱く、生産過程に従属した位置づけしか与えられない。だから、商業資本は剰余価値を生まないと断言できるのである。しかし、今日われわれが普通に商業というとき、それは幅広い分野を含んでいる。流通はその一部でしかない。そのほか、サービス産業といわれるさまざまな領域が含まれる。そういう領域での労働はどのような性格を呈するのか。それについてマルクスは全くといってよいほど言及していない。マルクスが言及する商業の周辺的な領域は、鉄道などの運輸業や通信といった分野だが、そういう分野は、流通を円滑にするためのものであって、したがって基本的には流通と同じ理屈が当てはまると考えていたようである。つまりそれ自体としては剰余価値を生まず、総資本の平均利潤の一部にあずかるとする見方である。

運輸業についてのこうしたマルクスの見方にも問題がないとはいえないが、商業のそれ以外の領域、サービス産業と呼ばれる領域については、マルクスが流通過程をめぐって展開した議論がそのまま当てはまると考えるのは無理がある。流通は商品の変態を媒介するだけで、新しいものを生み出すわけではないが、サービスは新しいものを生み出す。だから生産に類似した性格をもっている。とはいえ製造業と全く同じというわけでもない。サービス業については、ある程度違った視点からのアプローチが必要になるだろう。

その視点にかかわって、生産物とサービスとの関係を分析する必要があろう。その場合、おそらく、生産物とサービスとを結びつけるものは消費であろう。生産物もサービスも消費の対象になる。ところが流通はそのようなものではない。それは生産物が消費者のもとに届くための予備的あるいは付随的な機能である。そこが流通とその他のサービスとの基本的な相違である。



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