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利子生み資本:資本論を読む


資本主義的経済システムにおける利子は、利潤の一部である、とマルクスは主張する。資本家が、自分自身の所有する貨幣で事業を行う場合には、その果実としての利潤は、すべてかれの懐に入る。ところが、自分では貨幣を所有せず、他人から借り入れて事業をする場合、その果実たる利潤のすべてを独占するわけにはいかない。かれはその利潤を、貨幣の貸し手と分け合わねばならない。でなければ、必要な貨幣を調達することができないからである。このことから、資本主義経済システムにおける利子は、資本家が貨幣資本家と産業資本家(あるいは機能資本家)の二つに分かれることから生じる、と言える。

マルクスは、資本主義的経済システムにおいては、産業資本家が生み出す利潤(剰余価値)が社会全体の富の源泉となり、それをさまざまな利害関係者が分け合うと考えた。商業資本家は商業利潤という形で、地主は地代という形で、そして貨幣資本家は利子というかたちで、利潤の分け前にあずかるというわけである。その場合、商業利潤や地代には、平均利潤(一般的利潤)がそのまま適用されるが、利子の場合にはそうではないとマルクスはいう。利子の決定には、自然法則のようなものは働かない。それは、産業資本家と貨幣資本家との力関係で決まる。したがって、かなり偶然に作用される、とマルクスは考えた。

もっとも、利子は利潤の一部なのであるから、利潤を上回ることはあり得ない。だから、利潤、それも平均利潤が利子の上限ということになるが、しかしそれで設定されては、産業資本家の持ち分がなくなる。それ故、産業資本家が納得できるような水準で決められる。その水準は、マルクスが企業者利得と呼んだような、産業資本家の努力に見合うものでなければならない。一方、利子の下限は限りなくゼロに近いわけだが、それでもあまりに利子を低くしすぎると、今度は貨幣資本家の貸し出し意欲がそがれる。だから、貨幣資本家がある程度納得できるような水準に決められる。それがどのような水準に落ち着くか、明確な基準はないとマルクスは言う。さまざまな偶然が積み重なって、事後的に決まってくるとマルクスは考えた。

貨幣の貸し手と借り手の関係を需要と供給の関係に置き換えて、利子は貨幣に対する需要と供給の関係で決まるという言い方がなされるが、それは誤解させやすい言い方だとマルクスは言う。需要供給が説明するのは、平均価格からの個別価格の偏差である。そういう偏差があれば、それは需要と供給が一致することで解消される、ということを説明するだけである。ところが、利子にはそういった平均値というものは、はじめから与えられていない。利子の自然的な率というものは存在しない、利子率は、貸し手と借り手の駆け引きのなかから事後的に決まって来る、とマルクスは考えるのである。

それでも、利子率は、不断に変化しているわけではなく、かなり長い期間にわたって一定している。だから、それを平均値と見立てて、それとの偏差を需要供給関係で説明することはできそうである。たとえば、平均値より利子が低くなれば貨幣資本の需要が高まり、経済活動は活発化する、利子率が高くなって平均値を超えると、貨幣に対する需要が弱まり、したがって経済活動は低迷する。また、恐慌のような異常事態においては、利子率も異常に高まる。恐慌のケースでは、支払いの約束を果たすためには、どんなに高くかかっても借りなければならないからである。場合によっては、利潤率を超えた利子率でも借りなければならない。

ともあれ、利子は利潤の一部であり、それがどう決まるかは、貨幣資本家と産業資本家との利潤の配分をめぐる問題である。つまり量の問題であるわけだ。ところが、その量の問題が質の問題に転化するとマルクスは言う。利潤の一部として、その分け前に過ぎなかった利子が、それ自体独立した概念として自立し始める。利子は貨幣の固有の果実として独立した概念になり、一方、産業資本の取り分は企業者利得として独立する。利潤という共通の源泉から生まれた量的な区分が、質的に異なった区分に転化するわけである。そこにもマルクスは、資本の呪物性を認めている。

マルクスは言う、「総利潤の単に量的な分割が、質的な分割に変わるのである。利潤の一方の部分は、今では、一つの規定における資本にそれ自体として帰属する果実として、利子として、現われ、他方の部分は、反対の一規定における資本の独自な果実として、したがって企業者利得として現われる・・・このように、総利潤の二つの部分がまるでそれぞれ二つの異なった源泉から生じたかのように互いに骨化され独立させられるということは、いまや総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるをえない」

その固定の一例としてマルクスは、「自分の資本で事業をする資本家も、借り入れた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、資本所有者としての自分、自分自身への貸し手としての自分に帰属する利子と、能動的な機能資本家としての自分に帰属する企業者利得とに分割する」ような事象をあげている。

法人資本主義が発達した今日の資本主義経済にあっては、貨幣資本家と機能資本家の区別は、株主と経営者の区別に転化している。経営者は、総利潤のうちから自分自身のとりまえを報酬として受け取り、残余の部分を、基本的には、配当として株主に配分する。その場合、内部留保を無視すれば、経営者報酬が歴史的に高い水準で設定されていることが指摘される。アメリカのような金権社会のみならず、日本のような企業倫理を重んじる風土の国においても、経営者たちは途方もなく巨額の報酬をむさぼっている。かれらはそれを合理化するために、起業家利得が経営上の努力への報酬だと説明していたのと同じ理屈を持ち出す。企業運営を成功させて、巨額の利潤を生んだのだから、その努力に見合う報酬を得るのは当たり前だと言う理屈である。

マルクスも、経営者の経営努力をまったく評価しないわけではない。「およそ多数の労働者が個人の協力によって行われる労働では、必然的に過程の関連と統一は一つの指揮する意志に表わされ、また、ちょうどオーケストラの指揮者の場合のように、部分労働に関するのではなく作業場の総活動に関する諸機能に表わされる。これは、どんな結合的生産様式でも行わなければならない生産的労働である」と言っている。しかし、その生産的な労働が主張できる報酬には、おのずから常識的な水準があるだろう。今日の経営者たちがむさぼっている巨額な報酬は、とても常識的な水準とはいえない。

脇道にそれたが、本題に戻ろう。利子が、利潤から切り離されて、それ自体独立した概念となることで、その発生の痕跡も見えなくなる。だから、利子は貨幣が無条件に生み出すものだというふうに考えられるようになる。利子生み資本としての貨幣は、「自分自身を増殖する価値、貨幣を生む貨幣」となる。「価値を創造するということ、利子を生むということが貨幣の属性となるのであって、それは、ちょうど、梨の実を結ぶことが梨の木の属性であるようなものである」

ことここに至って、貨幣の呪物的性格が完成するとマルクスは言うのである。



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