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マルクスとケインズの利子論比較:資本論を読む


マルクスの利子論は、主に二つの主張からなっている。一つは、利子は利潤の一部であること、もう一つは、利子は貨幣資本家と産業資本家の利潤の分配をめぐる戦いで決まるもので、利子率決定の自然的法則は存在しないということ。これに、利子は利潤にその源泉をもつにかかわらず、一般の目には、貨幣の固有の果実として、価値を生む価値として、それ自体が独立した実体のようなものと捉えられる、という主張を合わせれば、マルクスの利子論のほぼ全体像が浮かび上がって来る。

これに対して、いわゆる古典派以後の主流の経済学、マルクスはこれをたびたび「資本の代理人」とか「俗流経済学」と呼んでいるが、その主流派の経済学は、利子をどのように捉えているか。

古典派以後の主流派の経済学は、利子の源泉については、基本的には無頓着であった。主流派は、利潤つまり剰余価値の源泉についても無頓着であり、商品の価値つまり価格は、人間労働とは関係なく、需要と供給との関係で決まると考えた。それと同じように、利子についても、その源泉とは関係なく、貨幣に対する需要と供給の関係で決まると考えたのである。マルクスは、需要供給関係には大した意義を認めておらず、精々平均値からの偏差を修正する働きをするものとしていたが、主流派では、需要供給こそが、価格決定の本質的な要因であると考えたわけだ。その考え方は利子にも適用され、利子は貨幣をめぐる需要と供給との関係から自ずと決まると考えたのである。マルクスは、利子決定のための自然的な法則は存在しないと考えたが、主流派の経済学は、需要と供給の一致が、利子決定の自然的な法則と考えたのである。

ここで、利子率に関する主流派の考えを整理していえば、利子率は、投資と貯蓄とが等しくなるような水準に決まる、ということになる。投資とか貯蓄とか、利子とはストレートに結びつかない言葉が出て来るが、投資とは言い換えれば貨幣への需要であり、貯蓄とは貨幣の供給であると言えるから、要するに、利子率とは、貨幣についての需要と供給が等しくなる水準で決まるということになる。

ケインズの経済学は、いまだに、古典派の理論を受け継ぐもっとも主流の理論と言われているが、かれの主著「雇用、利子、貨幣の一般理論」は、利子率決定のプロセスを詳細に分析している。その中に「利子率の一般理論」という章があるが、その名称からしてもケインズが、利子率決定についての自分の議論に絶大な自信をもっていたことがわかる。

ケインズも主流派同様、利子率は貨幣についての需要と供給が一致する水準に決まると考える。しかし、その場合の、需要と供給の捉え方が、並みの主流派より複雑である。ケインズは、貨幣の需要を構成する投資については、大雑把な投資需要ではなく、投資の限界効率を踏まえた需要だとする。投資の限界効率が利子率をうわまわる限り、投資は続けられ、したがって、貨幣への需要が存続すると考える。一方、貨幣の供給を構成する貯蓄については、人々の貨幣そのものへの選好度を考慮に入れる。人々は、たんに余った金をそのまま銀行に預金するわけではなく、一定の考慮を踏まえて、自分の手元資金のうちからどれくらいを銀行に預けるかを決める。その場合に働く貨幣に対する人々のこだわりを、ケインズは「流動性選好」と呼んだ。この流動性選好があるために、貨幣供給の動きは複雑な様相を呈するというのである。

貨幣と利子率の動きが実体経済にどのような影響を及ぼすのか。ケインズのモデルにしたがってシミュレーションすると次のようになる。貨幣の供給量が増えるという期待が生じると、流動性選好の条件に変化がない限り、利子率は低下する。すると投資は増加する。利子率にくらべた投資の限界効率が高まるからである。投資が増加することで雇用は増大し、所得も高くなる。また価格水準も高くなる。

以上は流動性選好を考慮に入れないでのシミュレーションだが、流動性選好を考慮に入れるとどのようになるか。流動性選好が高い場合には、貨幣の供給量が増えても、それがそのまま投資に結びつくとは限らない。そのような場合には、増加した貨幣量の大きな部分が、投資にではなく、蓄蔵に向う。では何が流動性選好を高める条件となるのか。最大の要因は利子率である。利子率があまりにも低くなると、人々は、貨幣を銀行にあずけたり、あるいは利子付き証券の購入にあてたりせずに、蓄蔵するようになる。それが極端化すると、「流動性の罠」と呼ばれる事態が発生する。流動性の罠とは、いくら貨幣の供給を増やしても、投資に結びつかないで、経済が停滞したままの状態を意味する。

現在の、日本をはじめとした先進資本主義経済がそうした状態だと指摘できる。日本では、日銀が異次元緩和と称して、湯水のように貨幣を市場に注ぎ込んでいるにかかわらず、それが投資や消費に結びつかず、経済の活性化につながらない。日銀がいくら貨幣をばらまいても、すぐに日銀の金庫に舞い戻って来てしまう。その結果、金は使われることなく、日銀の金庫の中に眠ったままである。こういう事態を、「流動性の罠」というべきなのだが、それが日本のみならず、先進資本主義国全体に広がっている。

それをもたらしている根本的な要因は、利子率の劇的な低下だ。いまやマイナス金利もあるほど、金利はすさまじい低下ぶりだ。金利の低下は、流動性選好を無視する限り、投資の増加と経済の拡大を生むはずのものなのだが、流動性選好が働くと、市場の金の流れがおかしくなるのである。

ケインズ自身は、利子率の下限は2~1.5%であり、それよりも下がると、流動性の罠に陥ると言っている。資本主義が動くためには、一定の利子が保障されることが必要だが、それの最低レベルは、経験則からいって2~1.5%だというわけである。

近い将来に、マイナス金利というような異常な事態が解消されるであろうか。それはかなり悲観的といわねばなるまい。利子率は、根本的には利潤の一部である。その利潤が、平均利潤率の傾向的な低下の法則にしたがって低下してきている。その傾向は今後も続いていくように思われる。まだ世界には非資本主義的セクターが残っていて、そういう要素が資本主義の法則を逸脱させるような働きをしているが、やがてグローバリゼーションが地球全体を覆い、資本の法則が全面的に貫徹するようになれば、平均利潤は限りなく低下し、利子生活者に贅沢な生活を保障してやるほどの、余裕を持たなくなるだろうことは、十分に考えられる。

なお、利子の呪物的・物神的な性格について言えば、主流派もケインズも、おそらく無意識にそれを前提にしている。彼らにとって、貨幣が利子を生むのは、貨幣そのものに内在する属性であり、商品に価格があるように、利子は貨幣の価格なのである。



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