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信用:資本論を読む


マルクスは信用を、まず貨幣の代替物として考える。貨幣の機能のうち支払い手段としての機能が独立して信用が成立したと考えるわけだ。信用は、いわば観念的な貨幣であるから、貨幣の現物態である貴金属の持つ制約を乗り越える。というのも、貴金属は自然の産物であるので、自然が本来抱えている制約がある。無限に産出されるわけにはいかないということとか、貨幣を媒介にした取引はバーチャルではありえず、リアルでなければならないといったものだ。信用が使えないところでは、ゲンナマがなければ何ごとも進まないのである。信用は、そうした壁を取っ払う。そのことで資本主義経済システムが、無制約に、爆発的に拡大する基盤となる。マルクスはとりあえず、そのように考えたのである。

マルクスは信用の典型例として手形を取りあげる。手形とは、支払い期日を指定した支払い約束のことである。これがほかのすべての信用制度の模範となる。手形にはさまざまな機能がある。支払い手段としての機能のほか、貨幣の流通を加速するとか、貨幣の量を膨張させるといった機能もある。手形は、割引を通じてさまざまな人々の間を循環し、現実の貨幣の媒介なしに、取引を媒介するので、その分貨幣の流通速度を速める効果を持つし、また、貨幣の量を実質的に増加させる効果がある。それとならんで、投機の手段にもなるとマルクスは言う。信用制度は、詐欺瞞着の温床なのだ。とくに、運送手段が未発達な時代には、手形は現実の取引とは無関係に、つまりずっと将来の不確かな取引を当て込んで発行されたものだが、それは、手形そのものが持つ信用を利用してのことだ。その信用が、詐欺瞞着に付け入るスキを与えたというわけである。

このように、信用は貨幣のかわりをする。しかし、そのうちに、貨幣にとってかわるようになる。信用はもともと貨幣を裏付けとして成立していたが、その関係が逆転する。貨幣が信用を裏付けとする段階がやってくる。歴史的に見ると、銀行券というのは、銀行が自分自身へ向けて発行したもので、はじめは期限付きの手形という形をとったものだ。それが、そのうち、期限を度外視して支払いに応じるようになった。これが今日における銀行券の始まりの姿だったわけだ。現代の資本主義世界にあっては、その銀行券は中央銀行だけが発行できるようになったわけである。

ここから言えることは、貨幣はまず金銀として始まったが、やがて銀行券へと変っていったということだ。銀行券は、初期のころは、自己信用だけでは信用されず、金銀をその裏付けとしていた。金兌換制度と呼ばれるものだ。それが貨幣としての銀行券の信用の最期の砦となっていたわけで、銀行券の信用はまだ完全ではなかったわけだ。金兌換制度が最終的に消滅するのは、1970年代以降のことだ。1971年にいわゆるニクソン・ショックが起き、金・ドル兌換制度が停止されて以来、銀行券がそれ自身の信用にもとづいて、貨幣の地位を独占したわけである。

金兌換制度の廃止は、銀行券としての貨幣の、信用をめぐる様々な問題を噴出させるようになる。インフレとかデフレといった現象が、新しい相貌を見せるようになる。それにともなって、貨幣そのものの持つ呪物的性格が注目されるようになる。今日経済学で根強い影響力を持つ貨幣数量説は、貨幣そのものに呪術的能力がそなわっていることを前提としたものである。

マルクスの生きていた時代には、貨幣とは金銀のことであり、銀行券は手形の一種として、金銀の信用力に裏打ちされているとマルクスは考えていた。だから信用の問題は、それ自体が独立したものではなかった、貨幣の周辺的な現象と見なされていたわけである。

マルクスが信用について特に注目したのは、それが資本主義的生産を極限まで推し進める能力であった。金銀としての貨幣が、資本主義的経済システムを媒介している限り、その発展には自然的な制約がある。信用はその制約を打破して、資本主義的経済システムを歯止めなく前へ推し進める、とマルクスは考えたのである。

マルクスは、信用の果たす役割を(第三部第27章で)いくつかあげているが、その中で重視しているのは、株式会社の形成と独占の進行である。株式会社は、マルクスによれば、資本主義的信用制度がもたらしたものということになるが、それは競争を通じての独占への傾向とならんで、社会的な資源を、少数の大企業に集中させる。

株式会社のような企業は、「個人企業に対する社会企業として現われる。それは、資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である」。というのも、「株式会社では、機能は資本所有から分離されており、したがってまた、労働も生産手段と剰余労働からまったく分離されている。このような、資本主義的生産の最高の発展の結果こそは、資本が生産者たちの所有に、といってももはや個々別々の生産者たちの私有としてではなく、結合された生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである」

マルクスはこう言うことで、資本主義的生産の最高の段階では、私的所有から社会的所有への、私的資本による私的な生産から結合された生産者による社会的生産への移行が準備されると主張するわけである。ところが実態を見ると、あいかわらず、私的資本による所有と生産とがはばをきかせている。私的所有は、ますます社会的生産への支配力を獲得している。信用は、私的所有の廃絶をもたらすのではなく、「個々の資本家に、または資本家と見なされる人々に、他人の資本や他人の所有に対する、したがってまた他人の労働に対する、ある範囲では絶対的な支配力を与える。自分の資本ではなく社会的な資本に対する支配力は、資本家に社会的労働に対する支配力を与える」

このマルクスの指摘は、今日の先進資本主義経済によくあてはまっているように見える。独占が進んで巨大企業が生産を支配する。それに応じて、独占企業を動かす人々は、とほうもない報酬を獲得している。それは、独占企業が私的企業であって、私的企業の利益を私的に処分するのはあたりまえのことだという理屈によって合理化されているのである。マルクスによれば、独占企業の利益は、私的な産物ではなく、社会的な産物なのだから、その果実は社会的に分配されるべきだということになるが、資本主義的経済システムでは、そういうことにはならない。企業の生み出した果実は、企業を実際に動かしている者の所有物だという観念が根を張っているのである。そういう観念をもっとも率直に語っているのが経済的リバタリアン(あるいは新自由主義)と呼ばれる連中である。この連中は、企業の資源の社会的起源についてはいっさい目をつぶり、その果実の自分たちによる独占を主張してやまないのである。マルクスはこれを、ある種の詐欺制度だとまで言っている。

信用制度についてのマルクスの見解は、次のような文章に集約されている。いわく、「信用制度に内在する二面的な性格、すなわち、一面では、資本主義的生産のばねである他人の労働の搾取を最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、しかし、他面では、新たな生産様式への過渡形態をなすという性格~この二面性こそは、ローからイザーキ・ベレールに至るまでの信用の主要な告知者に山師と預言者との愉快な雑種性を与えるものである」



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