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貨幣と実体経済:資本論を読む


資本論第三部第33章「信用制度のもとでの流通手段」は、貨幣と実体経済との関係について、主に論じている。今日影響力を発揮しているマネタリズムの見解では、貨幣は実体経済に強い影響を及ぼすとされているが、マルクスはそれとは正反対の見解を持っていた。貨幣の機能は流通手段とか支払い手段ということにあり、したがって実体経済を反映したものだ。実体経済が貨幣の量を決めるのであって、貨幣の量が実体経済を左右するわけではない、というのがマルクスの基本的な見解である。基本的というわけは、多少の偏差はありうると認めるからだ。

貨幣と実体経済の関係の分析に入る前に、この章のタイトルにもなっている「信用制度」の意味について確認しておく必要がある。マルクスがここで信用制度と言っているのは、手形などの信用取引が、実質的に貨幣としての役割を果たすことを意味している。貨幣は(マルクスの時代には)、金銀などの貴金属と兌換銀行券を主体としているが、それに手形などの代替貨幣が加わって、市場全体に流通している貨幣量が決定される。それを分析してみると、現実に流通している通貨(金属と銀行券)の数倍の規模の流通・支払い手段を指摘することができる。市場での貨幣への需要の大部分が信用制度によって提供されているわけである。

信用制度がいかに貨幣の役割の大部分を担っているかについては、「1844年から1857年までに、輸出入によって示された取引額は二倍以上になったにもかかわらず、流通銀行券の総額は絶対的に減少した」事実を、マルクスは指摘している。市場がうまく機能している限りは、手形などの信用制度は、貨幣の役割を代替できるのである。手形は、そもそもは現ナマと交換されることを前提としていたが、かならずしも現ナマと交換されなければならないわけではない。手形同士で差引勘定すればよい。その勘定の結果出た差額分を現ナマに変えればよいわけで、これも事実上は、銀行口座の上での振替ですまされることが多いのである。

信用制度が崩壊するのは恐慌の場合だ。一旦恐慌が起きると、手形は信用を失う。誰も手形を貨幣代わりに受け入れようとはしなくなる。現ナマだけが貨幣として見なされる。マルクスはこれを、信用主義から重金主義への転回と言っている。

ここから本題に入る。信用制度を含めた貨幣の量は、市場における取引の量によって決定される。「流通貨幣~銀行券と金~の量に影響するものは、ただ取引そのものの要求だけである」。貨幣の流通量は、その要求の規模に対応しているのであって、仮にそれを越えた貨幣が中央銀行などによって市場に注入されても、余計な部分はすべて預金となってしまって、流通からは事実上引きあげられてしまうのである。

これを常識的な頭で解釈すると、貨幣の量は市場における景気の動向を反映するということになる。景気が良くなれば自然と貨幣流通量も増加する。景気が悪くなればその逆になるわけである。ところがマネタリストたちは、貨幣の流通量を増価させれば、自然に景気も上昇すると判断する。その根拠は、景気の上昇と貨幣の量の増加がつねに伴ってきたという事実にある。たしかに事実はそうではあるが、貨幣の増加は景気上昇の結果なのであって、貨幣の増加を景気上昇の原因として働かせることはできないのである。先ほども触れたように、市場の要求を超える貨幣の増加は、銀行の金庫に退蔵されるほかはないのである。このことは近年の日本の実情からもよく見えて来る。日銀は、異次元緩和などと称して、貨幣を湯水のように市場に注入したが、それによって景気が上昇したということはない。余分に注入された貨幣のほとんどは、そのまま日銀の勘定に舞い戻ったのである。

中央銀行の役割には、貨幣流通量のコントロールのほか、利子率のコントロールということがある。利子率は投資に影響を及ぼすので、実体経済にも大きな影響を及ぼす。利子率が低くなれば投資が刺激されて経済活動は上向く。利子率が高くなればその逆の現象が起きる。

マルクスは、利子率と貨幣流通量との関係に着目している。マルクスは「利子率は流通貨幣量とはかかわりがない」と言っている。「通貨の絶対量は利子率には影響しない。なぜならば、この絶対量は~通貨の節約や速度を不変とすれば~第一には、諸商品の価格と取引量とによって規定されており(・・・)、また最後に信用の状態によって規定されているが、逆にそれが信用の状態を規定するのでは決してないからである。また、第二には、商品価格と利子との間にはなにも必然的な関連はないからである」

利子率の決定についてのマルクスの見解は、資本の貸し手(銀行)と借り手(産業資本)との間での、剰余価値の分配合戦の結果決まるのであって、そこでは自然法則的な必然的理由はないというものだった。だが、それですますわけにはいかないかもしれない。なぜなら利子率の水準は、たしかに実体経済に大きな影響を与えるからである。いまのところ、利子率の決定は、貨幣への需要と供給によって決まるというふうに考えられているが、需給関係というのは、あるべき水準からの偏差を説明するにすぎず、そのあるべき水準がどのように決まるのかについては、何も説明してはいないのである。

一つ言えることは、恐慌の場合には利子率が異常に高まるということだ。恐慌の場合には、信用制度が一時的に崩壊するので、現ナマへの需要が高まる。支払期限が迫っており、その支払いを実施するのに手形が使えないとなれば、現ナマへの需要が高まるわけである。その需要の高まりが、利子率を上げるというのは、歴史的な事実として指摘できることだ。一方、一たび恐慌が去ると、利子率はゼロ近くまで下がる。恐慌の影響で、経済活動が極端に悪化し、投資への意欲が減退するからだ。しかし、景気が上向くにつれて、利子率のほうも次第に上がっていく。これも歴史的な事実として指摘できる。こうした動きを注意深く分析すれば、利子率のあるべき、あるいは中位の水準がどのように決まっていくかが解明できるかもしれない。



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