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非農業用地の地代:資本論を読む


建築用の土地や鉱業用の土地など非農業用地の地代も、農業用地の地代と同様の法則があてはまるとマルクスは考える。「建築用の土地については、すでにアダム・スミスが、その地代の基礎がすべての非農業地の地代と同様に本来の農業地代によって規制されていることを論じている」とマルクスは言って、非農業用地の地代にも、差額地代や絶対地代といった農業用地の地代に相当するものが指摘できると考えるわけである。

もっとも、今日においてもっとも重要な意義をもつと思われる建築用地地代について、マルクスはあまり突っ込んだ分析はしていない。今日では、土地問題といえば、農業用地にかかる地代や土地価格よりは、住宅用あるいは商業用の土地をめぐる問題というふうに言うことができるのであるが、マルクスの時代にはまだ、農業用地の問題が圧倒的な比重を占めていたので、マルクスはこれらの(建築用地をはじめとする)非農業用地の問題については、農業用地をめぐる議論を横引きするだけで、主題的に論じることはなかった。

農業用地の法則を建築用地に適用すると、次のようなイメージになるだろう。まず、差額地代に相当するものについては、土地のシチュエーションが差額地代発生の決定的な要因になるだろう。農業用地の場合には、土地の豊度の相違が差額地代発生の要因となったわけであるが、それを建築用地に横引きすると、土地の豊度とは、土地の利用可能性、あるいは収益度ということになろう。とくに商業地の場合には、土地のシチュエーションは決定的な意味を持つ。人が集まりやすい土地は、商業地としての収益性が相対的に高いからである。住宅地についても、通勤の便利度とか、住環境の快適さといった部面で、土地の利便度の違いが生まれる。その違いが、差額地代に相当するものを生みだすことは十分に考えられる。

絶対地代に相当するものについてはどうか。農業用地の場合には、基本的には、農業生産物に含まれた剰余価値(利潤)の一部が地代に転化するということだった。それにプラスして、農業という生産分野の特殊性が、ある種の独占価格を生み、それが絶対地代として繰り込まれるということもある。ともあれ、農業用地の場合には、地代を生み出す源泉というものが、比較的明瞭である。それに対して、建築用地については、地代の源泉となるような物質的な根拠を指摘することはできない。建築用地は、農業用地と違って、年々に生産物を生むわけではないし、したがって社会に一定の価値を付け加えるわけでもない。それでも、どんな土地でも取引の対象になる。売買されれば地価という形の土地の価格が生じるし、賃貸されれば地代が発生する。ではどこから建築用地の絶対地代は発生するのか。その源泉は何か。

マルクスは、建築用地の絶対地代に相当する部分は、土地の売り手と買い手とのあいだの、駆け引きによって決まると考えた。そのかけひきは、土地の売り手に有利に働く。何故なら土地は、独占価格を成立させるからだ。マルクスによれば、独占価格とは、ただ買い手の購買欲と支払い能力だけによって規定されている価格をさす。買い手の支払い能力の限度は、多くの場合に、労働者の住居に対する支払能力ということになる。労働者は、自分とその家族の再生産のために必要な費用を労賃という形で得るわけであるが、その一部が住居のために費やされる。だから、地代というのは、労働者の労賃の一部が転化したものと考えられる。そういうわけだから、たとえば住宅地の価格は、労働者の支払い能力を限度として決まるといえる。この事情は、住宅購入価格の限度は、勤労者の年収の何倍といったかたちで、いまも頻繁に言及されている。

とは言っても、住宅地にしろ商業地にしろ、地価にはある程度の標準価格というものはある。それは標準的な地代を資本還元したものという形をとる。とくに商業地の場合には、賃料を資本還元したものが取引価格となる。住宅地の場合にも、アパートの賃料を資本還元したものが標準的な地価となる。一戸建ての土地の価格は、アパートについて成立する土地価格との関連において決まると言える。

以上は理念的な姿であって、実務においてはやや異なった形をとる。日本の不動産屋は、公的な土地評価を参考にしながら地価を設定しているが、その公的な土地評価は、近隣の土地の取引事例を参考にして地価を決めるという形をとっている。たとえば、国土交通省や都道府県の行っている地価調査においては、土地の価格は近隣の類似地の取引事例を参考にして決定される。その際に、路線価方式という独特のシステムが採用される。これは財務省の相続税路線価方式でも用いられている方式で、一定の道路に面した標準的な形状の土地について、その価格を決め、その他の土地については、標準的な土地との比較をもとに価格を決定するというものである。たとえば、袋地や旗竿地などの非定型的な土地については、一定の減価をするといった具合である。

こうしたやり方は、近隣の土地との比較において行うわけで、当該土地のもっている収益性を十分に反映していないという批判もある。これに対しては、近隣の土地の取引事例は、さまざまな要因を踏まえて決まるので、土地の実態をかなり反映したものだとの反論がなされている。ともあれ、地価がほかの土地の取引事例との比較において決まるというやり方では、地代の本質が見えなくなることは間違いない。土地は、収益性とか労働者の支払い能力といった実体的な要因とは切り離されて、土地そのものが自然と地代を生むという幻想に根拠を与えている。マルクスならそう言うであろう。マルクスの地代論は、建築用地も含めてすべての土地が、労働者の生みだす剰余価値に究極的な源泉をもっていると考えるところに特徴がある。資本主義的生産関係においては、すべての富の源泉は労働の生み出す剰余価値にあり、その剰余価値が、資本主義的生産のすべてのプレイヤーによって分けられると考えるのである。



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