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利子・地代・労賃:資本主義的三位一体


資本―利子、土地―地代、労働―労賃という定式化をマルクスは資本主義的三位一体と呼ぶ。三位一体とはもともとキリスト教の用語であって、キリスト教信者の信仰を基礎づけるものだった。同様にしてこの資本主義的三位一体は、資本家や土地所有者たちの、資本主義への信仰を基礎づけるというのが、マルクスの見方である。

この定式が意味するところは至極単純なことだ。資本は利子を生み、土地は地代を生み、労働は労賃を生む。資本、土地、労働は原因であって、利子、地代、労賃は結果である。それぞれの原因がそれぞれの結果を生む。この三位一体においては、三つの構成部分は相互にまったく関係していない。それぞれが独立して、原因と結果の関係、すなわち因果関係を成立させている。資本はそれ自身に内在する自然的な傾向に基づいて利子を生み出すのであり、土地は土地に内在する自然的な傾向に基づいて地代を生み出すのであり、労働はそれ自身の自然的な傾向に基づいて労賃を生み出すのである。

このように見ることによる利点は、資本家たちや土地所有者たちが、自分たちの所得を誇りをもって受け取れるということだ。資本家が利子を得るのは、資本そのものの性質によってであって、彼は自分の資本のもたらす自然の果実を収穫するに過ぎない。同じようにして土地所有者は土地のもたらす果実を修得し、労働者は自分の労働の果実を修得する。どれも公明正大なことであって、まったく何のやましいところもない。そう胸を張って言えるというわけである。

実際には、利子、地代、労賃の源泉は、剰余労働を含めた労働者の労働である。その労働のうち必要労働の部分が労賃となり、剰余労働の部分が利子と地代に転化するのである。資本主義的生産様式にあっては、新しく生み出されるすべての富の源泉は労働であるというのがマルクスの主張なのである。

ところが、資本家や土地所有者やかれらの代理人である俗流経済学者たちは、利子は資本が直接生み、地代は土地が直接生むと考える。労賃も又労働の対価として、労働から直接生まれるのだが、それは労働に対する十全な報酬として与えられるのであって、別に値切られるわけではない。労働者は自分に相応しい待遇を受けているのであり、かれの貰う労賃は、かれの労働に完全に見合ったものだというふうに考えるわけである。

では、資本家が自分の前貸し資本より多くのものを手に入れるのはどうしたわけか。また、土地が地代を生むのは、どうしたわけか。土地自体には何の価値もない。その価値のないものがなぜ新たな価値としての地代を生むのか。こうした疑問に対しては、俗流経済学者といえども、まともな説明はできないとマルクスは批判する。さすがに正統の古典派経済学者は、利子と地代の究極的な源泉は、社会にもたらされた新たな価値からの配分であり、その価値を生みだすのは労働であると喝破したのだったが、資本家たちやその代弁者たちはそうは考えない。資本が利子を生むのは、資本に本来内在する自然的な傾向によると考えるのである。彼らがそう考えるについては、それなりの理由があるとマルクスは言う。その理由とは、競争がもたらす外観であって、それが資本主義的生産の内在的な法則を隠すのである。

ともあれ、資本―利子の関係においては、利潤(実体としては剰余価値)は表立って出てこない。利子は利潤から分化したもので、利潤が利子と企業者所得に分かれたものとして観念される。企業者利得は、生産主体としての企業者が、自分の労働の対価として受け取るものとして観念され、利子の方は資本の自然な果実として観念される。そうすることで、剰余価値がそれらの源泉だということが覆い隠される。そのことをマルクスは次のように言う。「企業者利得と利子とへの利潤の分裂は(・・・)、剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質にたいする剰余価値の形態の骨化を、完成する。利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからはまったく引き離されてしまって、賃労働を搾取するという機能から発生するのではなく、資本自身の賃労働から発生するものとして現われる」

その結果、資本主義的三位一体では、資本主義的生産関係の物象化と神秘化が完成するというわけである。それをマルクスは、つぎのような皮肉たっぷりの言葉で表現する。「資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労賃では、すなわち価値及び富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合成が完成されている。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界であって、そこではムシュー・ル・カピタルとマダム・ラ・テル(資本氏と土地夫人)が社会的な登場人物として、また同時に直接にはただの物として、怪しい振舞をするのである」

競争の外観ということについては、それのもたらす効果は、それなりに強固な基盤をもっている。競争は、個々の生産者にとっては、自分が直接関与できない外的な事情であって、したがって自分の活動にとっての所与の条件である。競争の結果、商品の価格は平均化され、それにともなって利潤も平均化される。当然のことながら生産費も平均化される。その平均的な生産費は、個別資本家の現実の生産費とは一致しないのが普通である。だから個々の生産者は、自分の生産物の価格が、実際に投下した費用と一致するのではなく、市場によって外的に強制されたものだと認識する。それは無理のないことだ。だがそのことが、利潤は市場から自然とにじみ出てくるものだという観念に根拠を与え、剰余労働から生まれたものだという本性を覆い隠してしまうのである。

なお、三位一体的定式という形でマルクスが利子及び労賃と並んで地代を取りあげるのは、マルクスの時代における資本主義の発展段階を反映しているのではないか。彼の生きた時代には、イギリスを別にすれば、高度な発展を遂げた資本主義の国フランスでさえ、農業が大きな比重を占めており、土地所有者が権力の一端を担いでいた。イギリスでさえ、下院は土地所有者の牙城だとマルクスが言っているほどである。そういう情況であるから、土地所有がその当時の資本主義の大きな構成要素として映ったのは無理もない。

今日、近代経済学の巨人と見なされているケインズは、その主著のタイトル「雇用、利子及び貨幣の一般理論」が示しているように、地代は除かれて、雇用と利子とが考察の中心となっている。ということは、ケインズの時代になって、資本主義はいよいよ資本対労働という形に純化されて来たということを意味するのだろう。じっさいケインズの議論は、資本と労働とが貨幣を媒介にして富を形成する過程に集中しており、地代についてはほとんど触れられていないのである。それは、土地所有者を資本家と並んで、支配的な階級の一つとして考えるマルクスとは大きな違いである。



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