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資本主義の終わり:資本論を読む


資本論を通じてマルクスが目指したことは、資本主義的生産様式の歴史的な制約を明らかにし、資本主義には終りがあるということを明らかにすることだった。そこで、その終わりがいつどのようにしてやってくるのか、また資本主義が終わった後にはどのような社会が到来するのか、が問題となるが、それについてマルクスは、こういうことがあるかもしれないといった、憶測めいたものを控え目に書いているだけで、詳細に展開して見せることはなかった。とりわけ、かれが資本主義以後の姿として思い描いていた共産主義社会のイメージについては、詳しく語ることはなかった。

そこで、ここでは、資本主義の終わりについてのマルクスの予言めいた発言と、共産主義社会についての彼の漠然としたイメージについて、足りないところを補いながら、小生なりの解釈を行ってみたい。

マルクスは、資本主義的生産様式の終わりを、外在的な力によってではなく、資本主義的生産様式に内在する傾向性によってもたらされるというふうに考えていた。とは言っても、熟したリンゴが自然と落下するように、外力を加えなくとも自力で終末を迎えるということではない。終末にあたっては、既存のシステムを打破しようとする動きと、それを維持しようとする動きとが衝突する可能性が高い。だから、資本主義の終わりには恐らく暴力が伴うだろうとも考えていた。それをマルクスは、革命と呼んだわけだ。革命という言葉は、漢字としては、中国の歴史を背景にして、倫理的なイメージが強いが、西洋諸語では秩序をひっくり返すというニュアンスの言葉である。その場合の、ひっくり返される秩序が資本主義的生産様式であるわけだ。

マルクスは、資本主義的生産様式には、没落に向っての傾向性が内在していると考えたわけだが、それを簡単に表現すれば、だいたい次の二つのことに集約されるのではないか。一つは、資本主義的生産様式の非人間性が、普通の人間が耐えられないほどの水準に達し、これでは人間は人間らしく生きてはいけないという受け止め方が、社会的な合意として広がることだ。その合意が社会の大部分をとらえる時、資本主義的生産様式を打破し、別のシステムに代えようとする動きが高まる。これは革命の人間的な要因と言えよう。

二つ目は、資本主義的生産様式の抱える無政府的な傾向が、社会資源を効果的に配分することを妨げ、そこから資本主義が社会の発展にとっての障害になっているという考えが、社会的合意になることだ。これをマルクスは、生産様式と生産力との矛盾と言っているが、その意味は、資本主義的生産様式が社会の発展にとって桎梏以外の何物でもないと認識されることである。この矛盾は具体的には、恐慌の形をとるとマルクスは考えた。恐慌とは、資本主義的生産様式のもつ無政府的な傾向が、経済システム全体を混乱に陥れる事態をさすわけだが、その恐慌が大規模な形をとると、システム全体の破壊を招来する。それが革命につながる、とマルクスは見ていた。

マルクスは、資本主義システムの批判者として、こうした考えを表明したわけだが、逆に資本主義の利益を代弁する立場からは、上述のような傾向とか矛盾といったものをどのようにして解消するかが至上命題となる。この課題に敢然と取り組んだものがケインズだということは、マルクスも(もしケインズの同時代に生きていたら)認めるところだろう(あくまでも、生きていればの話だが)。ケインズの主張の要点は、国家が介入することで、資本主義システムの無政府性を緩和させるということだった。ケインズは、労働者を人間的に扱うという意図は持たなかったが、資本主義システムの無政府性を、国家の介入によってコントルールしようとする意図を明確に表明した。

国家の介入が、資本主義システムの過酷さとか矛盾とかを、ある程度緩和することはマルクスも認めていた。たとえば、資本論を執筆していた時期にも、イギリスでは工場法がたびたび改正され、労働者の過酷な労働条件を少しでも緩和しようという動きがあったわけで、それについてマルクスは一定の評価をしているのである。しかしマルクスは、国家の介入によって資本主義の矛盾が解消され、将来的に安定したシステムとして機能していくだろうとは考えなかった。国家の介入によってもたらされるのは、精々労働者の生存条件の改善くらいであって、国家の介入が資本主義的生産様式の無政府性まで解消するとは考えなかった。マルクスは、資本主義システムの矛盾の爆発としての恐慌を、国家の介入によって人為的に解消できるとは考えておらず、かえって大恐慌がいつか爆発し、資本主義システム全体を壊滅させることに必然性を感じていた。

とはいえ、国家が資本主義システムの安定に成功してきたことは、歴史的な事実である。それについては、マクロ的なレベルから、資本主義システムをコントロールしようとする動きがあった。経済の動きを、個々のプレーヤーにまかせきりにするのではなく、国家が計画的に介入することで、資源の有効活用を図り、無政府性を克服して、全体をコントロールする、というのが現代における先進資本主義諸国が採用している方法である。そのなかでも日本のように国家セクターの役割が大きい国と、アメリカのように自由主義的傾向が強い国との違いはあるが、どちらも国家をシステムの決定的プレーヤーとして織り込んでいることには違いはない。

ところが、近年いわゆるグローバリゼーションが進み、世界の経済活動は、国境を無視したものになってきつつある。そういう動きがますます進展していけば、国家の経済への介入が無意味になっていく可能性はある。それと並行する形で、マルクスが一般的利潤率の低下といった事態が進行している。これはグローバリゼーションの裏面のような現象だ。市場がグローバルになることで、プレーヤーの平均利潤もグローバル化され、しかもそれが、マルクスの言うようなメカニズムを通じて、劇的に低下している。いまやマイナス利率という言葉が流通しているように、資本が生み出す利子は劇的に減少している。資本主義とは、資本が利子を生むことで成り立っているわけで、資本が利子を生まなくなるというのは、資本主義の終わりが近いということに他ならない。それでも金はありあまるほどあるわけで、本来利子を生むものに投資されるはずだったそうした金は、運用の機会に窮して、投機的な株式市場に殺到している。株式とは本来は、資本の生み出す利子を前提にしたものであるが、いまではその前提が崩れたまま、金は投機に流れているのである。

マルクスが資本主義の終わりを予言した時には、資本主義は国家の上に成り立っていた。だからマルクスは、革命は国家単位で起こると考えていた。無論、革命の動きが、1848年の連鎖現象のように各国に連鎖することはあり得ても、基本的には、革命は国家単位のものだと考えていた。国家単位の事象であれば、それを国家がコントロールすることは十分に可能である。歴史の流れは、国家が革命を防止して、資本主義の延命に成功してきたことを証明している。しかしいまや、国家の枠組みは取り払われつつある。資本主義的生産様式の矛盾は、国家単位の出来事にとどまらず、グローバルな出来事に転化している。そういう動きの中で、今後資本主義の矛盾が激化したときに、それを制御する主体、つまり国家のようなものが存在しない、ということは十分な根拠を以て言明できるのではないか。資本主義の終わりを告げ知らせるラッパの音は、すぐそこまで迫っているのかもしれない。



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