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ニーチェの思想


ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)は、既存のあらゆる価値に対して根本的な疑問を提起し、それらを徹底的に相対化した。ニーチェの読者がまず最初に感じるのは、その逆説的なものの言い方をどう受け取ったらよいかというとまどいだろう。ニーチェは善いとか悪いとか、美しいとか醜いとかいった言葉を通常の意味で使った上で、自分は「悪い」とか「醜い」もののほうを評価するというような言い方をする。そこで読者はそれを一種の逆説だろうと推測したくなるのだが、これは逆説などではない、とニーチェは言う。つまり彼は本気でそう思っていると言うのだ。

こんな訳であるから、ニーチェはあらゆる事柄について、世の中の常識とは逆のことを言う。彼にとっては、世の中の常識を支えている考え方は唾棄すべきものなのである。世の中の常識にはすべて裏がある。その裏の事情を知ってしまうと、それを尊重する理由はなくなる。世の中の常識を支えているのは、ニーチェのようなヨーロッパ人にとってはさしあたりキリスト教道徳であるが、これはそもそも奴隷根性が生み出したものなのだ、そうニーチェは言って、世の中で尊重されているあらゆる価値を転倒させようとするのである。

ヨーロッパの哲学の歴史においては、当然のことながら、世の中で価値あるものとされる事柄について、その根拠と正統性とを裏付けることが哲学の使命だとされてきた。ニーチェはそうした伝統に異議を唱えたわけである。しかもこれほど強烈な異議申し立てはなかった。そんなわけでニーチェは、ヨーロッパの知的伝統への厳しい対立者としての位置づけを持たされるようになった。それ故、伝統的な哲学を否定するような文脈においては、かならず参照される思想家となった。つまりニーチェは、ヨーロッパ哲学の知的伝統である合理主義とか主知主義とかいったものの対極に位置する思想家として、大きな影響力を及ぼすようになったのである。

実際ニーチェの思想は、反合理主義とか反近代が問題となるごとに復活してきた。現代の思想状況においても、ニーチェの株は大いに上がっている。ということは、現代という時代も反合理主義がもてはやされる時代だということなのだろう。

既存の価値体系をトータルに否定するニーチェの態度はあまりにも激烈かつ徹底的なので、批判にとっての最強のモデルを提供している。世の中には批判を超越した価値などはない。あらゆる価値は批判の対象になる。それがニーチェの基本的な態度である。それ故、前の世代の思想を批判しようとする者にとっては、ニーチェは導きの星となるような存在なのだ。

ここまでは誰もが認めるところだ。既成の価値の批判者としてのニーチェの意義を否定するものはいない。反合理主義への敵対者として知られるあのバートランド・ラッセルでさえ、ニーチェの批判のもつ意義については一目置いている。ニーチェはキリスト教道徳が勧めるところの利他主義とか普遍的愛とかいったものを軽蔑し、それが奴隷根性に基づくものだということを、歴史的に明らかにしたわけだが、そうした断定に対してラッセルは自信をもって反対できないと言っている。ラッセルでさえそう言うのであるから、凡庸な思想家にとってはニーチェの言葉は新たな啓示のように聞こえるに違いない。実際ニーチェの思想は凡庸な人たちによって金科玉条の如くにあがめられてきたのである。

だが凡庸な人たちにとって躓きの石となってきたのは、ニーチェが既存の価値に対置させた新たな価値である。彼らはニーチェの批判的方法とともに、ニーチェ自身の思想をも受け入れることで、グロテスクな状況に陥るという危険を冒すことになる。ニーチェが持ち出した彼自身のユニークな考え方は、ニーチェだから大目に見てもらえるところがあるが、凡庸な人々の口から出て来るとグロテスクにしか聞こえない。例えば、人を殺してはいけないという主張には確固たる根拠はないとニーチェが言うとき、それはひとつとの考え方として許容されるが、凡庸な人間が言うと、そうは聞こえない。この男は殺人を容認する人間だとしか受け取られない。というわけで、ニーチェのユニークな思想には色々と問題がある。すくなくとも文字通りには受け取れないところがある。

そうしたニーチェの思想の問題点について、ラッセルはいくつかあげて批判している。たとえばニーチェのエリート主義。ニーチェはキリスト教の聖徒のかわりに「高貴なる」人間を持ってくるが、それは普遍的で理想的な人間類型としてではなく、支配する貴族としての具体的で現実的な人間たちなのだ。ニーチェにとってはこれら貴族たちこそが、優越した人間としてすべての権力を振るい、弱い人間たちは貴族たちの犠牲にならねばならない、何故なら貴族たちが栄えることを通じて、人間という種族もより繁栄することができるからだ。だがそんな貴族制度なら、エジプトを数千年にわたって支配した階級制度や、アメリカやフランスの革命がおこるまで各国で採用されていた制度と何ら変わりはないと言って、ラッセルは厳しく批判する。

ニーチェの女性蔑視についてもラッセルは厳しい。女性は戦士の慰安のために尽くすべきだといい、男が女のもとにいくときには鞭を持参しなければならないなどとニーチェは言って、女性をあからさまに軽蔑してみせるが、そんなニーチェにとって、身近にいた女性は彼の妹だけだったと言って、たいした経験もなく、したがってたいした根拠もなく女性を軽蔑するニーチェの幼稚なところをラッセルは馬鹿にしている。

また、キリスト教に対するニーチェの軽蔑が、キリスト教が掲げる普遍的な愛への軽蔑に根差しているとラッセルは言い、ニーチェにはいかに人間への同情心に欠けていたかを問題にする。そしてニーチェのそうした残忍性に、キリスト教や仏教の愛を対比させる。ニーチェの残忍性は人の拷問を見て喜びを感じるような体のものである。それに対して仏教の慈愛は、どんな生き物が苦しんでいても、それが苦しんでいる限りは自分は幸福には成り得ないと感じる。どちらが正しいかについて自分は説明できない、だが自分は、ニーチェのように感じることを嫌悪する、とラッセルは言う。道徳というものは絶対的なものではないかもしれないが、顧みないで済むものでもない。少なくともニーチェの言うことが仏陀の言うことより正しいとは誰にも言えない、と言いたいようである。

ともあれニーチェは、既存のあらゆる価値に対して根本的な疑問を提起し、それらを徹底的に相対化したわけだが、それに対置する形で自ら提起したものは、既成の価値に対する反価値として、あまりにもグロテスクな様相を呈した、というのが素直な受け取り方ではないか。ニーチェの方法に学ぶことはあっても、彼の提起した価値観については、眉に唾をして向き合う必要がある、ということだろうか。ここではそんなニーチェについて、なるべく多角的に評価・検討したい。




ディオニュソス的なもの:ニーチェ「悲劇の誕生」
反時代的考察:ニーチェの教養俗物批判
生に対する歴史の利害:ニーチェの歴史主義批判
ニーチェのショーペンハウアーかぶれ
あらゆる価値の転倒へ向けて:ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」
あらゆる価値の転倒へ向けて(承前):ニーチェの形而上学批判
自由な精神と束縛された精神:ニーチェの人間類型論
高貴な人間と卑俗な人間:ニーチェのエリート論
支配者道徳と奴隷道徳:ニーチェの道徳論
ルサンチマン:ニーチェのキリスト教批判
力への意思:ニーチェの思想の根幹
真理とは解釈されたもの:ニーチェの哲学批判
神は死んだ:ニーチェのニヒリズム
霊の三つの変転:ニーチェの思想
ニーチェの超人
永遠回帰:ニーチェの思想



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