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教育者としてのショーペンハウアー:ニーチェのショーペンハウアーかぶれ


「反時代的考察」の第一論文において教養俗物を徹底的に批判したニーチェだが、それを批判するだけでは時代は前進しないままだろう。教養俗物が人間像のマイナスの典型としてドイツをスポイルしているのであるならば、ドイツを救済して前進させていくようなプラスの人間像の典型がなければならない。そのような人間像とはいかなるものなのか。それを取り上げて考察したのが、第三論文の「教育者としてのショーペンハウアー」である。

表題が暗示しているように、この論文では、ショーペンハウアー的な人間こそ理想的な人間像であるとともに、ほかならぬショーペンハウアーこそがそうした理想の人間像に生まれ変わるための教師の役割を果たすことが出来ると宣言している。それ故、この論文はニーチェのショーペンハウアーかぶれの一端を物語ってもいるものなのだ。

ショーペンハウアー的な人間とは一言で言えば、英雄的な人間のことである。しからば英雄的な人間とはいかなる人間なのか。それを浮かび上がらせるためにニーチェは、人間のいくつかの類型について分析を加えている。それらを比較分析することによって、英雄的な人間とはいかなるものかが、自ずから浮かび上がってくる、と考えたわけなのだろう。ニーチェはいう、

「われらの近代が次々に提出し、それを見ることから、死すべき者がおそらくなお長きにわたって自身の生を光明で満たすことへの衝撃を受け取るところの三つの人間像がある。それはルソーの人間、ゲーテの人間、最後にショーペンハウアーの人間である。」(「教育者としてのショーペンハウアー」小倉志祥訳、以下同じ)

これら三つの人間像は、いずれもプラスイメージで捉えられている。つまり教養俗物とは対極にある人間像として捉えられているわけだ。これらは同じくプラスイメージの、つまり望ましい人間像でありながら、互いに差異もある。その差異を分析することで、ショーペンハウアー的な人間像の特徴が浮かび上がってくるだろう。そこでまず、ルソー的人間について。

「第一の像(ルソーの人間像)からは激烈な革命に突き進んだし、現に突き進んでいる力が出て来た。けだし、あらゆる社会主義的な震動と地震に際して、エトナ山下の老テュポンの如くに動くものは依然としてルソーの人間だからである」(同上)

ルソー的人間像においてニーチェが見ている典型的なものは革命のエネルギーだということがわかる。革命に突き進む熱狂、それがルソー的人間像の本質をなす。したがってルソー的な人間は思惟よりも行動を、理性よりも感情を、保存よりも破壊を重視する。これはこれで人類が前進していくために不可欠の要素であるが、だがそれのみでは、良い結果にはつながらないだろう。思惟を欠いた行動は妄動に陥りやすいし、理性なき感情は狂気と異ならないし、破壊だけではそれこそ破壊的な結果しか出てこない。そこで、ルソー的な人間像を修正するような要素が必要となる。それを体現しているのが、ゲーテ的人間像である。

「ゲーテの人間はそれほど威嚇的な力ではない。いな、ある意味ではそれどころか、まさにルソーの人間が身をゆだねたあの危険な興奮の懲治法であり鎮静剤である・・・ゲーテの人間は高次の様式における静観的人間であり、かかる人間はかつて存在した、また現に存在するすべての偉大にして考察に値するものを己の生活の糧として寄せ集めることによってのみ地上において憔悴せず、たとえ欲望から欲望への一生にすぎないとしても、そのように生きるのである。彼は活動的な人間ではない・・・ゲーテ的な人間は保存的調和的な力である」(同上)

このようにゲーテ的人間像は、あらゆる面でルソー的人間像の対極にあるものである。それでいてルソー的人間像とともに教養俗物の対極にもある。これらはどちらも、それのみでは片手落ちになるだろう。片手落ちにならないためには、この両者の要素を兼ね備えたような人間像が望まれる。それがショーペンハウアー的人間像なのだ、そうニーチェはいうのである。

ところが、そういいながら、ショーペンハウアー的な人間像の特徴なるものについて、ニーチェが直接に語るところは少ない。ニーチェはそれをストレートに語る代わりに、遠回しにして語るのだ。たとえば次のように。

「われわれはより良くなるために一度本当に悪くなることが必要である。そしてこのためにショーペンハウアー的人間がわれわれを鼓舞してくれるはずである」(同上)

つまりショーペンハウアーには、良い部分だけではなく悪い部分もある。もっともその悪いという意味は、常識というつまらぬ鏡に照らしてのことであるが、とニーチェは言うわけなのである。そのような人間像の一端については、ほかならぬショーペンハウアー自身が、次のように言っている。「幸福な生活は不可能である。人間が到達し得る最高のものは英雄的人生行路である」

つまり英雄的人生行路こそが、理想的な人間像のそのまた理想なのだとショーペンハウアーはいい、ニーチェもそれに同意しているのである。人間にとって、この理想的な状態に達することが人生の目標にならねばならない。逆に言えば、そのような状態に一瞬でも達することが出来たら、その人生にとっては、他のことは皆どうでもよくなるのだ。

「あの最大の願望の叶えられる日が一日でもありさえすれば、どんなに喜んで残りの生涯を代償として提供することか! かつて或る思想家が上ったほど高く上り、アルプスと氷の澄んだ空気のなかへ、そこではもはや霧のかかることもヴェールで蔽われることもなく、事物の根本性質が粗く硬く、しかし避けようのないわかりやすさで表現されているところへ上るならば」(同上)

つまり個々の人間にとっては、至福の一瞬のために全人生をかけるということが意味を持つわけだ。その至福の一瞬を実現できれば、その人の人生は成功したということになる。逆に言うと、そのような一瞬に達しえなかった人間は、どんなに外見的な成功を重ねても、成功したとは言えない。そんな人間の一生は失敗の見本というべきなのである。

個人についていえることは、人類全体についてもいえる。こうしてニーチェの判断は飛躍していく。個人が一瞬のために自分の人生をかけるように、人類は一人の英雄のために全体が犠牲になるべきなのだ、という飛躍した理屈が展開されるのである

「人類は個々の偉大な人間を生み出すことに絶えず従事すべきである~これこそ人類の課題であり、その他の如何なることもそれではない」(同上)

これは後年になって本格的に展開される超人論のさきがけというものだろう。さきがけであるから、思想はいまだ萌芽の段階にあって、当然荒削りなところがある。ニーチェもそのことには感づいていたらしく、折角持ち出してきた英雄的人間像について、これ以上展開することはなく、再び教養俗物の批判へと戻っていく、この論文の後半は、教養俗物とその体現者としての学者たち、そして学者たちの理屈を支える小賢しい学問の批判に充てられている。

「教養があるということは、自分がいかに悲惨で低劣であるか、努力においていかに猛獣の如くであるか、収集においていかに飽くことを知らぬか、享楽においていかに我欲的で恥知らずであるかを気取らせぬことを意味する」(同上)

「学者階級は俗世化のこのすべての動揺のなかにあって、もはや灯台でも避難所でもない。彼ら自身が日々にますます動揺し、ますます思想をも失っていく。現今の芸術と学問をひっくるめてすべてのものが来るべき野蛮に奉仕している」(同上)

こうした激越な批判はもはやショーペンハウアーとはあまり関係がない。ショーペンハウアーは世の中とは距離をとったが、それは自分の殻に閉じこもるという形を通じてであり、同時代の世の中を積極的に批判してやろうという意欲は持たなかった。ところがニーチェは、この世の中の批判にこそ自分の生きがいがあると言わんばかりに、同時代の批判をやめなかったのである。そんな自分自身を、ニーチェは自覚していたのであろう。後年、「この人を見よ」の中で、次のように付け加えている。

「結局ここでは、"教育者としてのショーペンハウアー"ではなく"教育者としてのニーチェ"が語っているのだ」(「この人を見よ」氷上英弘訳)


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