知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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あらゆる価値の転倒へ向けて(承前):ニーチェの形而上学批判


「人間的な、あまりに人間的な」におけるニーチェの形而上学批判は、形而上学を土台で支えている一連の思考の枠組に対しても向けられる。その枠組とは、理性こそが真理を捉えることが出来るのであり、それ以外の人間の能力、たとえば感情とか芸術的感性によってではないとする立場である。これに対してニーチェは、理性の対象ではないような別の真理もあるといって、理性の対象となるような真理を相対化するとともに、時によってはそれこそが誤謬であり、別の真理(ニーチェはそれをとりあえず"目立たない真理"という)こそが真理でありうるという逆説的な言い方をする。

「目立たない真理の尊重~厳密な方法で見出された小さい目立たない真理を、形而上学的・芸術的な時代や人間に由来するような、たのしげなまばゆい誤謬よりも高く評価するということは、高級文化の目印である。さしあたり人間は、前者のような真理に対して、こんな所には同権のものなど存在しているはずがないとでもいうように、唇に嘲笑を浮かべる、それほどこの真理はつつましく、素朴で、ひややかで、それどころかちょっと見るとがっかりさせるぐあいに立っているし、あの誤謬はうるわしく、はでやかに、酔わせるように、それどころかおそらくはうっとりさせるような具合に立っている。しかし苦労して獲得したもの・確実なもの・永続するもの、それ故にこれから先のどんな認識のためにもなお効果の多いものが、実際いっそう高いものであり、それに味方することこそ男らしいことであり、勇気・率直・節制を示している。人間がついに堅実な永続的な認識をもっと高く評価することに馴れ、真理の霊感や奇蹟的伝達へのあらゆる信仰を失ってしまうと、次第にただ個々の人のみでなく、全人類もこの男らしさに高められることであろう」(「人間的、あまりに人間的」池尾健一訳、以下同じ)

このようにニーチェは何が本物の真理であるかという問いを、およそ無効にするような言い方をする。絶対的な真理などと言うものはないのだ、というわけである。

ところで、形而上学が自分の持ち出した真理をほんものだと主張するわけは、その論理的な整合性にある、とニーチェは言う。論理的に整合なものは、あらゆる矛盾から免れている。矛盾がないということは正しいということであり、正しいということは真理の本質をなすことがらなのだ、というわけである。これは真理を論理の相関者と見る立場であり、したがって一種の認識弁護論でもある、とニーチェは言う。

「哲学者で、その手中にある哲学が認識弁護論にならなかったような者は、今日まで存在したことがなかった、認識に最高の有用性が与えられなくてはならないと判定するという、少なくともこの点では、どの哲学者も楽天家である。彼らはすべて論理学の専制に服している、そして論理学はその本質上楽天家なのである」(同上)

「人間をしてもっとも幸福に生活させるような、世界や生の認識如何? という問いを立てた時、哲学は学問と決別した。それはソクラテス学派で起こったことである」(同上)

ここでニーチェは、形而上学がソクラテスに始まったということを改めていっているわけである。

ソクラテスの打ち立てた形而上学は、現象界とイデア界とを峻別する立場である。それによれば現象界とは物自体としてのイデアが仮にこの世にあらわれた姿であるととらえられる。これに対しては当然反対の意見もあって、それら(カントを代表とする)は、現象世界と物自体との区別は認めながらも、両者の直接的な関連を否定してしまった。我々が認識できるのは現象世界だけであって、その背後にある物自体は決して認識されることはない、と主張するのである。その意味では形而上学の否定といえなくもないが、現象と物自体との二項対立を認めているかぎりでは、形而上学の延長と見做せないでもない。

「現象と物自体~哲学者たちは、生成や経験の前へ~彼らが現象と呼んでいるものの前へ~きっぱり展開されつくしているような、そして不変不動に同じ事象を示しているような一つの絵に向かうように身構えるのが常である。この事象を正しく解釈しなければならない、と彼らは思い込む。そうすることで絵を生み出してきた本質へと、つまりいつも現象界の充足理由とみなされるならいである物自体へと、推理せんがためである。これに対して最も厳密な論理家は、形而上的なものの概念を、制約されないもの、したがってまた制約しないものの概念として、鋭く確立したのちに、制約されないもの(形而上的世界)と我々に知られている世界とのどんな関連をも否定してしまった、それで現象にはまさに断じて物自体は現れない、現象から物自体へのどんな推理も拒絶されるべきである、というのである」(同上)

ここでニーチェがいっていることは、伝統的な形而上学も認識論的な反形而上学も、現象とイデアという同じ二項対立を前提にしている限りは、同じ穴のムジナだということになる。ニーチェにとっては、こうした二項対立そのものが、疑われなければならないものなのだ。つまり、それはこの世界を説明するための唯一の枠組ではないかもしれぬ。ほかにもそうした枠組がありうるかもしれぬ。ということは、それらは人間の認識活動の歴史の中でたまたま遭遇したひとつの偶然のたまものであったのかもしれないではないか、そうニーチェはいうのである。

「しかしながら両者ともつぎのような可能性、あの絵~今我々に人間や生や経験といわれているもの~は次第に生成してきたのであり、それどころかまったく生成の途中にあり、それ故に創始者(充足理由)に関する推理を引きだしたりあるいはまたただ斥けたりしてもよいような、確定した大きさとみなさるべきではない、という可能性を見落としている・・・現在我々が世界と呼んでいるものは、有機体の発展全体にわたって次第に成立し、たがいに癒着して、今では過去全体の蓄積された財宝として我々に相続される一群の誤謬や空想の結果なのである」(同上)

こうしてニーチェは、人間の思考の枠組全体を、相対化させてしまうのである。この世界を認識するための唯一の枠組など存在しないのだし、また、認識だけが人間の活動のすべてではない。「世界や生の認識」が問題なのではなく、世界や生を生きることそのものが問題なのだ。こうしてニーチェの議論は、形而上学の批判から「あらゆる価値の転倒」に向かって壮大な展開を見せていくわけである。


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