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力への意思:ニーチェの思想の根幹


「力への意思」はニーチェの思想の根幹と言えるものである。それは人間の認識を始めとするあらゆる行動の背後に力への意思を想定し、それら(認識やその他人間の行動)は「力への意思」が発現されたものだと考える。その意味で、世界を意思と表象とに分け、意思が発現されたものが表象だとするショーペンハウアー思想の変形だといえよう。

「力への意思」は、あらゆる人間のあらゆる行動を制御しているわけであり、人間である限り「力への意思」で説明できないような行動をとることはない。奴隷的な人間も高貴な人間もみな、「力への意思」に基づいて行動している。しかし、強い者と弱い者とでは、力への意思の発言の形はいささか異なっている。その相違についてニーチェは次のように説明する。

「権力への意思は
A)被圧迫者のところ、あらゆる種類の奴隷のところでは『自由』への意思としてあらわれる。たんに解放されることのみが目標と見える。
B)権力へと成長しつつある比較的若い者のところでは、権力の優勢への意思としてあらわれる。最初それが失敗に終わったときには、この意思は『公正』への、言い換えれば支配者が持っているのと同程度の権利への意思に制限される。
C)最も強い、最も富める、最も独立的な、最も気力ある者のところでは、『人類への愛』、『民衆』への、福音への、真理、神への愛としてあらわれる。同情、『自己犠牲』その他としてあらわれる。圧倒、略奪、奉仕への要求として、方向を与えられることのできる大いなる権力量との本能的一体感としてあらわれる。すなわち、英雄、予言者、帝王、救世主、牧人。(性欲もまたこれに属する。それは、圧倒を、専有を欲するが、しかもそれは献身であるかのごとく見える。根本においてそれは、おのれの『道具』への、おのれの乗馬への愛に過ぎず、これこれのものは、それを利用することのできるものとしておのれに所属しているという確信である)」(「権力への意思」原佑訳)

このテクストでは、「力」を「権力」と訳しているが、「権力」という言葉には政治的なニュアンスが強く感じられるので、単に「力」とするのがよい。

ともあれこのように、人間はそれぞれ自分の置かれた立ち位置に応じて「力への意思」を発現しようとするわけである。その中でニーチェがまず注目したのは、最も弱い立場の者による力への意思の発現である。先稿で指摘した通り、人間社会は奴隷道徳が支配するようになったわけだが、その奴隷道徳を支えていたのがルサンチマンであり、さらにそのルサンチマンの根底には弱い者の自己保存の欲求があった。この自己保存の欲求こそ、(弱い者にとっての)「力への意思」の本体である、そうニーチェは考えたのであった。つまり弱い者にとっては、とりあえず奴隷的な境遇から解放されることが最大の目的となる、その解放を実現するカギが奴隷道徳である、この世界は奴隷道徳によって支配されなければならない、何故なら、奴隷道徳こそこの世界の最多数の構成員にとって最も都合のよい処世訓であるから、というわけである。

しかし、強い者、高貴な者たちの力への意思はどうなってしまったのか。何故強いものたちの力への意思は抑圧されてしまったのか。何故強い者が弱い者に屈するという倒錯したことが起こったのか。それは、奴隷道徳が狡猾であり、強者もまたそのあまりの狡猾さに取り込まれてしまったからだとニーチェはいうのだ。

強者にとっては、そもそも道徳などというものは意味をなさない。意味をなすのは力への意思のストレートな実現である。彼にとっては、強いことはすぐれたものであり、弱いことは劣ったものに過ぎなかった。そこには善い悪いの区別はない。善悪の区別が道徳の始まりだとすれば、強い者にとって道徳は意味を持たないのである。だが世界全体とすれば、道徳は巨大な意義を持ちうる。何故なら道徳がなければ、世界は秩序を保てないだろうからだ。こうして、奴隷たちの作った道徳が世界の秩序を支えるようになる。

奴隷たちにとっては、強いものたちは恐怖の対象である。ところが、恐るべきものとは悪いものである。だから彼ら強い者は悪人である。彼ら強い者が悪人だとしたら、その対極にある我々弱い者は善人である。悪人は利己的で暴力的である。善人は利他的で平和的である。隣人愛こそが人類至高の美徳である。こうして奴隷道徳はこの世界に巨大な善悪の網を張り巡らし、強い者たちをもその網に絡め取ってしまう。絡め取られた強い者は、もはや強い者とはいえない。世界は弱い者の互助組合の様相を呈するようになる。

こんなわけで、世界とは本来様々なレベルの人間たちが、それぞれの立ち位置に従って力への意思を実現し、その過程で、人類全体も高められていくはずなのだが、弱いものたちの奴隷道徳がはびこったおかげで、人類は全体的に奴隷化傾向を呈し、上昇ではなく、下降のプロセスをたどるようになった。このままでは、奴隷道徳はますますはびこって、人間の中の高貴な部分を圧倒し、卑俗な部分ばかりを増長するようになるであろう。それを止めるためには、強い者にとっても力への意思が存分発揮されるような条件が必要だ。

こんな方向に軸足を定めると、「力への意思」は人間の行動の説明原理であることを超えて、新しい価値の創造原理に変る。その新しい価値とは強い者の価値であるのに違いない。ニーチェは強い者に本来の役割を果たさせることで人類全体も高められると考えていたから、エリートを大事にするのは当たり前なのである。弱い者は強い者を抑圧するのではなく、むしろ強い者の犠牲になることによって強い者を自由に羽ばたかせ、その可能性を最大限に発揮させるべきなのだ。そうすれば人類全体も、種として一段高いレベルに進化し、そのことを通じて、弱い者も恩恵を被ることが出来る。これがニーチェのエリート論の神髄である。


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