知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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思惟も純粋経験である:西田幾多郎「善の研究」


西田幾多郎が「善の研究」の中で展開した「純粋経験」の概念にはユニークなところが二つある。一つは、西田がそれを、新カント派の意識の所与としての現象やベルグソンら直感主義者の直感とは違って、単なる思惟の材料ではなく、それ自体が(上田閑照の言葉で言えば自発自展する)実在だと捉えていること。もう一つは、思惟もまた純粋経験の一契機、というか純粋経験そのものだと捉えていることである。

前稿で、西田が自分なりの方法的懐疑を行って、純粋経験というものを取り出してきた経緯を見た。そこで西田が取り出した純粋経験というのは、ごく簡単に言えば、反省が加わる以前の生の事実であるということだった。だからそこには未だ主もなければ客もない、主客未分の状態にあるむき出しの事実があるだけである。これが純粋経験だとしたら、反省が加わったあとのもの、主客が分明となった状態のものは、純粋経験とはいわれないはずだ。ところが西田は、思惟も純粋経験だというのである。

思惟というのは反省によって成立するものである。だから、反省が加わる以前のむき出しの事実こそが純粋経験だと定義したあとでは、反省を前提とした思惟は純粋経験とは言えない筈なのに、それをも純粋経験と言う。これは破綻した論理ではないか、普通の人なら誰しもそう思うはずのところだ。ところが西田はそう思わない。そこが西田の面白いところだ。

西田はなぜ、こんな風な言い方をするのか。それを知る手がかりとして、「善の研究」第一編第二章「思惟」の部分にあたってみよう。

西田はここで、知覚と思惟との関係について論じている。普通の考え方では、知覚は所動的、思惟は能動的と考えられている。また、知覚は具体的、思惟は抽象的とも言われる。いずれにしても、両者は厳しい対立関係にある。対立する一方のものが、他方のものに働きかける。その関係は一方的で、能動的な思惟が所動的な知覚を材料にしてさまざまな概念をつむぎだすというような関係にあると考えられている。

西田はこの対立を絶対的なものとは考えない。思惟は抽象的な働きというが、完全に抽象的な思惟などというものはない。どんな思惟でも必ず心象(イメージ)を伴っている。イメージなしに思惟は成立しない。つまり、思惟というものは、それ自体のうちに、知覚の要素であるイメージを含んでいる。したがって、知覚と思惟とは絶対的な対立関係にあるのではなく、相対的な関係にあるに過ぎない。

この辺の議論は、カントの図式論を念頭に置いているのであろう。カントは、現象的な所与と概念的な認識作用との間に図式を差し挟むことで両者の対立に架橋しようとした。カントは、人間の認識というものは、現象的な所与にアプリオリな思考の枠組を当てはめることで概念的な認識が成立すると考えたわけだが、その枠組を現象に当てはめる際に、図式というものが作用するのだと考えた。図式というのは、一方で具体的な現象につながっているとともに、個々の現象を超えた部分を含んでいる。たとえば個々の三角形について、どの三角形にもあてはまるような三角形の代表(正三角形でも二等辺三角形でもないが三角形であるにはちがいないような図形)というようなイメージがそれにあたる。それは、概念ほど抽象的ではないが、個々のイメージほど現象にとらわれていない。その中間にあるものだ。中間にあるからこそ、それは現象と概念とを橋渡しすることができるという理屈だ。

西田のいう心象は、カントの図式的なイメージに相当すると考えることができる。ところで西田によれば、イメージもまた純粋経験の一要素である。それは知覚の場合ほど所動的かつ具体的ではないが、やはり純粋経験の一種であるには違いない。その純粋経験の一種であるイメージを伴っている限り、思惟もまた純粋経験の一種だとすることができる。こんな風に西田の議論は展開するのである。

こうしてみると、西田のいう純粋経験とは、哲学説の配置図の上ではかなり特異な位置を占めていると言わざるをえないだろう。西田はこの概念を、経験の第一次的な材料である現象的な所与について使っているだけでなく、概念的な認識作用である思惟についても使っている。それだけではない、(おいおい言及するつもりであるが)知的直感というようなものについてまで純粋経験のうちに含めている。ここまで使用範囲を拡大すると、人間の認識活動のすべてが純粋経験という言葉でカバーされてしまう。

だが西田がそもそも純粋経験という言葉を持ち出してきたのは、経験の究極の根拠としての、反省以前の生の事実を説明するためだったはずだ。それが議論の進行にしたがって、そもそもの立脚点を外れて違う軌道を走るかのようになってしまった、そう筆者などには受け取れるのである。

この混乱振りを整理しようとしてか、西田学者たちには、純粋経験を狭義のものと広義のものとにわけて、反省以前の生の事実としての現象的所与を狭義の純粋経験、意識一般をカバーするものを広義の純粋経験だとするものもいるが、これは苦し紛れの一手というべきだろう。

ここで、「善の研究」の思惟論に言及したついでに、西田の真理論にも触れておきたい。西田はまず、「自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる」という。直覚的純粋経験は判断以前の生の事実であるわけだから、真とか偽とかいう区別はない、真偽の区別が問題になるのは判断が介在する場合だけだといっているわけである。

ではその判断がどのような場合に真理であり、どの様な場合に妄想なのか。これについて西田はかなり踏み込んだ言い方をしている。

新カント派を含めて伝統的な(主流的な)学説にあっては、真理とは、主観と客観の一致のことをさして言った。客観をどのように見るかについてはいくつかのバリエーションがあるが、ともかく主客の一致をもって真理とするという見方が王道に立った見方であった。ところが西田は違う立場から真理を見る。まず、西田自身の言葉を聞いてみよう。

「如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これにあった場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである」

つまり、西田のいう真理とは、我々の意識体系と矛盾しないものをさしているわけである。ここでいう意識体系とは、別言すれば我々の思考を束縛している憶念の体系ということになる。その憶念の体系が我々にとっては客観的実在なのであり、それと一致するものが真理とされる、というわけである。

こういう言い方は、構造主義者たちのそれに良く似ている。


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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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