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パイドロス読解その六


ソクラテスは、それまでの話から一転して、今度は、自分を恋していない者よりも、自分を恋している者に身をまかせるべきだという話をするわけだが、その理屈として持ち出すのは、狂気がかならずしも悪いことではなく、むしろ良いことだとする主張である。自分を恋している者に身をまかせるべきではないという主張は、そういう者は狂気にとらわれているのであって、その狂気は悪いものだという前提に立っていたわけだから、その前提を崩せば、そういう主張は成り立たないというのである。

そこでソクラテスは、狂気が良いものであるということを立証しにかかる。とりあえずは、「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、そのもっとも偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくる」ことを立証しようとする。「デルポイの巫女も、ドドネの聖女たちも、その心の狂ったときにこそ、ギリシャの国々のためにも、ギリシャの人のひとりひとりのためにも、実に多くの立派なことを成し遂げたので」あったし、逆に、「正気のときには、彼女たちは、ほんのわずかのことしか為さなかった」といって、狂気がいかに善きものを生み出すか、立証しようとするのである。

狂気が善きものを生み出す例として、ソクラテスは四つの事柄を上げる。一つ目は、予言術である。予言とは未来のことを言い当てることだが、その技術を昔の人は狂気を意味するマニアーという言葉を織り込んで「マニケー(狂気の術)」と呼んだ。それは予言術が狂気にもとづいていることを昔の人は知っていたからだ。それに対して、「ひとが正気のままで、鳥の様子や、そのほかのしるしを手掛かりにして、未来の事柄を探求する技術」は「占い術」と呼ばれる。この二つを比べると、「予言術が占い術よりも、その名前においても、その実際の仕事においても、いっそう完全なもの」である。それは、「神からさずけられた狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」からである。

二つ目は、秘儀の霊感である。秘儀というのは、世にも恐ろしい疾病や災厄がある氏族を襲った場合に、それから逃れるための救いの道を求める目的で行われるものだが、それは狂気を通じてもたらされる。つまり、「神に憑かれ正しい仕方で狂った者」を通じて、災厄から逃れる手段が示されるのだ。

三つ目は、ムウサの神々から授けられる神がかりと狂気である。これは芸術のインスピレーションといってよいものだが、これなしにはすぐれた詩は作れない。正気のなせる詩は、「狂気の詩の前には、光を失って消え去ってしまうのだ」

そして四つ目が、恋の狂気であるが、この狂気こそは、この場の話題にもっとも深いかかわりがある。「この恋という狂気こそは、まさにこよない幸いのために神々から授けられるという」ことだが、それは人間の魂にかかわることだ。そこで恋の狂気をよく理解するためには、魂の本性とその真実を突き止めねばならない。こういったうえでソクラテスは、ひとまず魂の本性についての考察に集中するのだ。

このあたりの文章の流れは多少わかりにくいところがある。狂気の種類をのべたあとに、恋の狂気にたどりつき、それが狂気のなかでももっとも善きものであることを証明しようとするのであるが、その証明の手がかりとして魂が持ち出される。何故魂なのかは触れられない。おそらくギリシャ人にとって、恋と言い、狂気と言い、魂にかかわる事柄だから、いちいち魂を持ち出す根拠について触れる必要はないという判断があるのだろう。かれらにとって恋の狂気とは、魂の陥った状態を意味するのだと思う。

魂の本性についての考察は、魂の不死についての考察から始まる。ギリシャ人にとって魂の不死性は揺るがぬことだったようだ。だからその理由についてことこまかくはのべない。ただ、魂の不死性を前提にして、そこから帰結される事柄を列挙するだけだ。まず、魂は不死であるから、常に動いてやまない。しかも、他のものを動かしながら、他のものによって動かされることがない。魂は自分自身を動かしているのだ。ということは、魂は「他の動かされるものにとって、動の源泉となり、始原となるものである」

ここで始原についての考察に移る。「始原とは、生じることのないものである。なぜならば、すべて生じるものは、必然的に始原から生じなければならないが、しかし始原そのものは、他のなにものからも生じはしないからである、じじつ、もし始原があるものから生じるとするならば、始原でないものからものが生じるということになるだろう」

ここでプラトンが始原といっているのは、世界全体がそこから生じてきたものを連想させる。「すべて生じるもの」がそこから生じたものという位置づけになっているからである。ところで、魂はそのようなイメージとは結びつかないというのが普通の考え方であろう。何故なら魂は個別的なものだからだ。個別的なものとしての魂が、世界がそこから生じた始原と同じものだとは、なかなか考え難い。しかしプラトンは魂をそのようなものとして見ている。そこには、魂こそが人間の存在がそこから生じてきたという考えがあるようだ。魂は、人間の存在の始原である。そのようなものとして、普遍的な性格を帯びている。そうした始原としての資格で、魂は世界がそこから生じて来た始原と同一視される、ということのようである。

ともあれ、始原としての魂は、自分で自分を動かすものであり、動の源泉であり、滅びることもありえないし、生じることもありえない。ということは、魂は永遠の性格をもっているということだ。滅びたり生じたりするものは有限な存在である。魂は、滅びもしないし生じもしないものとして無限なのである。その無限な魂は、純粋な形では永遠なものとしての本性を持つが、個別的な肉体と結びつくと、個々の人間になる。この場合、肉体は魂にとっての墓場などとプラトンは言うのだが、そのあたりのことは、しばらく先のところで、あらためて言及したい。

以上が、魂の本性をめぐる議論である。プラトンにとって、魂の本性はその不死性にある。そのことを確認したうえでプラトンは、魂の本来の姿についての議論に移る。しかし魂の本来の姿を、まともに説明できるのは神だけだから、人間である我々には、それが何に似ているかということを言えるにすぎない。つまり魂の似姿について説明することが我々にできる精いっぱいのことである。

こう言ってプラトンは、魂の似姿を、「翼をもった一組の馬と、その手綱をとる翼を持った御者とが、一体になってはたらく力」にたとえる。この譬はプラトンが多用するもので、御者を人間の精神的な働き、つまり本来の魂として、一組の馬を肉体としてイメージしているのであるが、ここでは魂の部分と肉体の部分が一体となったものを、広い意味での魂の意味で使っている。そうすることで、霊的な存在者である人間をイメージしているとともに、そのイメージを神にも転移させているわけである。ギリシャ人にとって、神は人間の理想像をあらわしているという意味付けをもたされている。

ともあれ、これ以降は、魂の似姿についての考察を通じて、プラトンの宇宙観と人間論が、壮大な規模を以て展開されるわけである。その部分が、パイドロスというこの対話篇の中核部分をなすのである。




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