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パイドロス読解その七


ソクラテスは魂の似姿を、神と人間とに共通したものとして捉える。ただ完成度の違いがあるだけだ。神の魂の似姿は完成されているので、二頭の馬はいづれも御者の言うことを聞き、スムーズな動きをする。それに対して人間の魂の似姿は不完全なので、二頭の馬のうち一頭は御者の言うことをきかず、そのためにスムーズな動きが出来ないのだ。これら魂の似姿は、折に触れてこの世界の外側に出て、そこで真実の世界を見る。そのさまをソクラテスは次のように描写する。

神々は天界に住んでいるが、普段は太陽と同じように地球の回りを進んでいると考えられる。その進み方というのは、「偉大なる指揮者ゼウス」が先頭を進み、これに十一の部隊に整列された神々とダイモーンの軍勢が従う。ギリシャの十二神のうちヘスティアだけは、炉を護る神として神々のすみかにとどまるからである。けれども、「饗宴に赴き、聖餐に臨むとき」、つまり神々の祝祭のときがくると、かれらは天球の果てを支える穹窿のきわまるところまで、けわしい路をおかしてのぼりつめる。そして天球の外側に進み出て、その背面に立つ。そこから神々は天の外の世界を観照するのだ。

神々がそこで観照するのは、「真の意味においてあるところの存在~色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの<実有>である」。ここで<実有>という言葉は、<真実の存在>というような意味で使われている。真実の存在とは、個々の現象がそれに根拠を持つようなもの、現象の原因となるようなものをイメージしている。ソクラテスは、個々の現象の彼方に、それの原因となるようなものを求め、それにイデアという名を与えるのであるが、ここでは、イデアという言葉は使わないものの、<実有>すなわち真実の存在が、それをあらわしていることは明らかなように思われる。

神々の魂は、天の外の世界でさまざまな真実在を観照して、その饗宴を楽しんでしまうと、ふたたび天の内側にはいって、神々のすみかへと帰っていき、そこで馬たちをねぎらうために、神食(アムブロシア)を投げ与え、神酒(ネクタル)を飲ませてやるのである。

この神々の行進には、人間たちの魂の似姿も同伴する。そして神々と同じ真実在を見るのであるが、人間は神々のように完全ではないから、真実在の全貌をくまなく見ることは出来ない。その一部を見るにすぎない。いづれにしても人間は、真実在を見ることで、生命を更新されると考えられる。更新された生命は、神々による次の行進までは、損なわれずにいることができる。しかし人間の魂がなんらかの事情から、真実在を見損なったり、途中で翼を失って地上に落ちる場合には、そのものには、アドラステイアの掟に従って、次のような定めが待っている。アドラステイアとは、人間の運命を定める必然の女神である。

真実在をこれまでに最も多く見た者、つまり過去に最も多く真実在を見たことがある者は、「知を求める人、あるいは美を愛する者、あるいは楽を好むムウサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人間の種のなかへ。第二番目の魂は、法を守り、あるいは戦いと統治に秀でる王者となるべき人の種のなかへ。第三番目は、政治にたずさわり、あるいは家を整え、あるいは財をなす人の種のなかへ」はいっていくこととなる。以下、九種類にわたって、地上に落ちた人間に待っている定めの内容が語られる。それらの定めは、別に陰惨なイメージは感じさせず、ただ神と行動を共にすることができなくなった人間の、人間らしい生き方が列挙されているにすぎない。

こうして自分に割り当てられた定めを生きることになった人間の魂は、その生涯を終えたときに、功績によって評価され賞罰を受ける。よい功績を評価された者は天上のある場所に迎えられ、罰を受けた者は地下の世界にある仕置きの場に追われるであろう。いずれにしても人間の魂は、一回の生につき千年の間はこのようにしてすごさねばならない。そうして千年がたったところで、二回目の生が与えられる。こうしたサイクルを十回繰り返し、一万年たったところで、新しい翼が生えて、再び神々とともに行進する機会を与えられるのだ。その際に、途中で挫折することがなく、天の外側まで行けたならば、神々と同じような生き方を授けられる。そうでないならば、再び一万年のサイクルを繰り返さねばならない。だが、中には、一万年のサイクルを短縮して、三千年で翼が生え、神々の行進に従うことができる魂もある。どちらにしても人間の魂は、さまざまな生を経めぐるというふうにイメージされている。

こうしたイメージは、東洋の輪廻転生の思想を想起させる。そうした思想は、ギリシャにおいては、オルペウス教によって説かれていた。オルペウス教には、魂の受肉とか、死後の応報賞罰とか、輪廻転生といった考えがあって、そうした考えがソクラテスの上述した魂の議論にも色濃く反映しているのは明らかである。アドラステイアによる人間の定めといった考えも、オルペウス教起源のものと思われる。オルペウス教は、合理主義的な傾向が強いギリシャ思想において、もっとも非合理な部分を代表しているのであるが、そのオルペウス教に、ソクラテスすなわちプラトンが強く影響されていたということは、非常に興味深いことである。

一方、ゼウスを先頭にした十二神が、天界をすみかとし、折に触れて天球の周囲を回転するというイメージは、ギリシャ固有のものだろうと思う。プラトンがソクラテスにこうしたイメージについて語らせたのは、イデアの観念の正統性を補強するためだったと思われる。イデアは、「国家」編においては、現象の原因としての形相的なものとされていたが、それが具体的にどのようにして存在しているかは、かならずしも明確ではなかった。具体的な明確性を重んじるギリシャ思想にあって、やはり観念の物質的な存在様式を明らかにすることは、非常に重要なことだとプラトンは思ったのであろう。それを天の外にあって、魂の観照の対象になるものと位置付けることで、プラトンはイデアに物質的な基礎づけを施しえたと考えたのではないか。

ともあれ、プラトンにおいては、真実在はこの世を超越したところに存在しており、この世における個々の現象は、その真実在を模倣したものだというふうな、一種の二元論的な思考が働いているわけである。その二元論の両端を媒介するのは、人間の魂ということになるが、これについては別稿で詳しく触れたい。




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