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パイドロス読解その十二


弁論の技術すなわち弁論術について、ソクラテスはそれを話すことと書くことにわけて考える。話すにせよ書くにせよ、その内容、つまり話されることと書かれることに違いはないだろうから、分けて考える必要はないようにも思えるが、ソクラテスがそれをわざわざ分けて考えるのは、それなりの理由があってのことだ。それは、話すことは、基本的には一時的なことで、後には形を残さないのに対して、書くことは後に形を残すことだ。書くことは後に書かれたものを残し、それがいつでも読まれる状態となる。ということは、書かれたものには、それ自体に自立した存在意義があるということだ。

書くことの意義(あるいは効用)をめぐって、ソクラテスは一つの昔話を持ち出す。次のような話だ。エジプトのナウクラテス地方に、テウトという神が住んでいた。この神は文芸をつかさどる神で、算術とか幾何学、天文学や将棋を発明したのだったが、中でももっとも注目すべきは文字の発明だった。ところで当時エジプト全体に君臨していたタモスという王様の神がいたが、テウトはそのタモスに、自分が発明した文字の効用について自慢げに話した。「この文字というものを学べば、もの覚えはよくなるでしょう。私の発明したのは、記憶と智慧の秘訣なのですから」と。

これに対してタモスは次のように答えた。「あなたは文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから・・・じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ」

ソクラテス自身はタモスの意見に与しているようである。書かれた言葉は、記憶の助けになるものではなく、想起のきっかけになるものに過ぎず、しかも有意義な知恵を与えてくれるわけでもない。有意義な知恵を与えてくれるのは、話される言葉によってなのだ、とソクラテスは考えているらしい。そのことは、次のような言葉からもうかがわれる。それは、書かれたものから何か有意義なものを得られると信じている者は、「書かれた言葉というものが、書物に取り扱われている事柄について知識を持っている人にそれを思い出させるという以上に、もっと何か多くのことをなしうると思っている」という指摘だ。つまりソクラテスは、人は書物によって何か新しい知識を得られるわけではなく、既に知っていることがらを想起するに過ぎないと考えているわけである。

ソクラテスの書物についての考えは、おそらくプラトン自身の考えだと思われる。だが、もしそうだとすると、彼自身が書いた膨大な書物は、人々にソクラテスという人物の考えたことを知ってもらうのが目的ではなく、自分自身が後になってそれを想起できるための備忘録だったということになる。

ともあれ、ソクラテスにとって理想の言葉とは、「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ」。そういう言葉は、書かれた言葉には期待できない。やはり生き生きと話される言葉にだけ期待できることだ。それをパイドロスが自分なりに言い換えて、「ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉ですね」と言っている。そういう言葉は書かれた言葉ではありえない、「書かれた言葉は、これ(話された言葉)の影であるといってしかるべき」なのである。

弁論の目的は、言葉によって魂に働きかけ、相手を正しい方向に導くことであると、この議論の冒頭で言われていたが、それが成功するのは、「ひとがふさわしい相手を得て、ディアレクティケーの技法を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ」。こう言ってソクラテスは、真実は、人と人との間にかわされる対話の中から生まれて来ると主張しているようなのである。その対話をするさいの有効な技術をソクラテスはディアレクティケーと言っている。つまり、弁証法である。弁証法とは本来、対話の中で繰り返される、措定と反措定、そしてそれらの総合といったプロセスをさしていうわけだが、そのような討議的なやりとりを通じて初めて真理が浮かび上がって来るというのが、弁証法の考えなのである。そういうやりとりは、基本的には対話、すなわち語り合うことから生まれるのであって、書かれたものは、そのやり取りが映しだされた影に過ぎないということになる。

以上を踏まえてソクラテスは、弁論の目的とか技術について次のような総括を与える。すなわち、「話や書き物の中で取り上げるひとつひとつの事柄について、その真実を知ること。あらゆるものを本質それ自体に即して定義しうるようになること。定義によってまとめた上で、こんどは逆に、それ以上分割できないところまで、種類ごとにこれを分割する方法を知ること。さらには魂の本性について同じやり方で洞察して、どういうものがそれぞれの性質に適しているかを見出し、その成果にもとづいて、複雑な性質の魂を適用するというように、話し方を整理すること」。これらを一つの言葉でまとめて表現すると、ディアレクティケーということになる。ディアレクティケーは生きた対話のなかでこそ展開されるものであり、書かれた言葉はその影に過ぎない。

それゆえ、大事なことは、「真実がいかにあるべきかを知り、自分の書いた事柄について尋問されたときに、書いたものをたすけてやることができ、そして、書かれたものは価値の少ないものだということを、みずから実際に語る言葉そのものによって証明するだけの力を」持つことである。そういう力を持った人をソクラテスは、「愛知者(哲学者)」と呼ぶのである。「知者」と呼ばないのは、それが神のみに当てはまる言葉であって、人間に用いるのは大それたことだからだ。ともあれ、「愛知者」は人間の理想像であることは間違いない。ソクラテスがめざしたのは、自分自身がその理想像に近づくことであったろう。

面白いのは、ソクラテスがその理想の人間像にかかわって、イソクラテスに言及している点だ。イソクラテスは弁論家として知られ、ソクラテスにとっては、リュシアスと同じようなことをしていると見られている人のはずだ。そのイソクラテスをソクラテスは、「知に対するひとつの切実な欲求が、生まれつき宿っている」と言って、最大限の誉め方をしている。その意図が何であるかについて、この対話編は何も語らないので、古来プラトン学者の間で議論の的となって来た部分だ。ともあれこの対話編は、イソクラテスへのその賛辞を以て、事実上終わっているのである。

事実上というのは、対話の実質的な内容がここで終わっているということである。ソクラテスとパイドロスは、対話が一応所期の目的を達したことに満足して、その場を去るのである。対話を始めた時は、まだ日が高く、したがって暑さも盛りだった。それが暑さもやわらぎ、歩きやすい陽気になった。そこでソクラテスは、その土地の神に祈りを捧げて、立ち去ろうとする。その祈りというのは、「この私を、内なるこころにおいて美しい者にしてくださいますように。そして、私が持っているすべての外面的なものが、この内なるものと調和いたしますように。私が、知恵ある人をこそ富める者と考える人間になりますように。また、私の持つお金は、ただ思慮ある者のみが、にない運びうるほどのものでありますように」というものであった。




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