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饗宴読解その二


エリュクシマコスの提案に基づき各自エロースをたたえる言論を披露することが決まると、ソクラテスがパイドロスを言論レースのトップバッターに指名した。神々の加護のもとにエロースをたたえよというのだ。そこでパイドロスが口火を切った。かれの言論は以下のようなものだ。

エロースが偉大な神であることは、その出生の古さからわかる、とパイドロスは言う。まず、この神には生みの親がいない。ヘシオドスの言うところによれば、太初にはカオスが生じ、ついで大地とエロースが生じた。アクレシオスも同じ意見で、カオスの後にかの二柱の神、すなわちガイア(大地)とエロースが生じたと言っている。この二人は高名な歴史家である。その歴史家が言うのであるから、エロースが古い神であることは間違いないというわけだ。

パルメニデスは歴史家ではなく思想家であるが、かれもまた天地生成のことに触れ、「万の神々のうちまずエロースをば第一に案出したまえり」と言っている。案出したまえりの主体が誰であるか明確ではないが、ここではそれには触れないでおこう。エロースが古い神であることの傍証のひとつとして受け取ればよい。

エロースが古い神であることがわかったとして、そのエロースをたたえるべき理由は何か。エロースは恋をつかさどる神であるが、その恋を通じて人間を立派にしてくれるからだ。何故なら恋をしている者は、自分が恋している少年から愛想をつかされぬよう気をくばるものであり、立派に振る舞うように努めるからである。こうした立派さというものは、エロースが自分からの贈り物として恋をしている人々に与えるものなのである。

恋は殉死にもかかわりがある。ただ恋をしている者だけが、殉死の覚悟ができるのであって、それは男子と女子とを問わない。たとえばペリアスの娘アルケスチスは、夫の両親が存命中にかかわらず、ただ自分の夫のために死ぬことを承知したのだが、それは夫を恋すればこそのことであった。そんな彼女の行為を嘉されて、神々は彼女の魂を冥界から引き戻したのであった。

一方、オイアグロスの子オルペウスについては、「彼が訪ねて行った妻の幻影だけを見せて、彼女そのものは与えず、空しいままに彼を冥界から追いやってしまった。これは、彼が竪琴弾きの歌い手であるため柔弱な人間で、アルケスチスのように敢然と恋のために死ぬこともできず、生きて幽界に入ることを画策したと、こう神々に見られたからである。こういうわけだからこそ、神々は彼に罰を与えて、女どもの手にかかってその命を落とすというふうにしたのだ」

オルペウスとは逆に、テチスの子アキレウスについては、その誉をたたえて、彼を浄福な人々の住まう島へと送ったが、それはアキレウスが母親の諫めを無視してまで、あえて自分を恋してくれ、自分もまた恋しているパトロクロスのために命を掛けて戦い、討ち死にしたことを神々がよしとされたからである。アキレウスとパトロクロスとは、男同士が深い恋愛で結びついていたわけで、その彼らのホモセクシャルな愛は、ホメロスもたたえていたところである。

以上、パイドロスの言論は、古い神であるエロースをたたえながら、そのエローススが恋をつかさどることに着目して、恋が人間にとって持つ意義を考究したものだ。その恋のなかでも、アキレウスとパトロクロスの間の男同士の恋がとりわけ強調されていることがミソである。

ついで、パウサニアスの言論が紹介される。パウサニアスによれば、エロースには二種類ある。それは、エロースが従っている女神のアフロディテに二種類あるからである。その二種類のアフロディテに、それぞれ別のエロースがしたがっているのである。一方のアフロディテは年上で、「ウラノスを父とし母なくして生まれたもので、この女神に対してわれわれはウラニアという称号を奉っている。他方、年下のほうはゼウスとヂオネの間に生まれた娘で、この女神をわれわれはパンデモスと呼んでいる。こういうわけだからして、必然的にエロースもまた、一方のアプロヂテに協力するもののほうはパンデモス、他方はウラニオスと呼ばれるのが正しい呼ばれ方である」

「パンデモス・アプロヂテに属するエロースは真に低俗(パンデモス)で、そのなすところは、行き当たりばったりのでたらめである。これは、人々の中でもつまらぬ連中のする恋(エロース)である。ところでこのような連中は第一に、少年を恋するとともにそれに劣らず女性を恋する。第二にその、ほかならぬ恋する相手の魂よりもむしろ肉体を恋する。第三には、できるだけ考えのない者を恋するのであるが、これは彼らがただ自分の想いをとげることだけに意を注いで、その仕方が立派であるか否かを考慮しないからである」。それはこのパンデモス・アフロディテが、他方よりも年が若く、しかもその出生において男女両性にあずかっているからだとされる。

一方、ウラニア・アフロディテに属するエロースは、専ら少年との間での恋をつかさどる。それはウラニア・アフロディテがその出生において、女性とは無関係に、ただ男性であるウラノスだけが彼女の出生にあずかっているからである。ところで、恋のうちでもっとも価値のあるものは男同士の恋である。その恋は、もっぱらウラニア・アポロディテに従うエロースの加護を受けるのであり、男女どちらでも恋の対象とするようなパンデモス・アフロディテとはかかわりのないものである。したがって我々は、エロースについて語る場合には、どちらのエロースについて語っているのかを明らかにする必要がある。

パウサニアスはここまで語ってパウサメノスした(口をつぐんだ)。その次にはエリュシマコスの言論が紹介された。

エリュクシマコスは医者であるので、医学的な見地からエロースを論じる。彼はエロースに二種類あるとしたパウサニアスの説に同調して、その二種類のエロースは、魂のみならず身体にもかかわりがあるという。というか、身体そのものが二種類のエロースをもっている。身体には健康な身体と不健康な身体とがあるわけだが、健康な身体には健康な欲求(エロース)が、不健康な身体には病的な欲求が宿っているというのである。こういうことでエリュクシマコスは、エロースに関する議論を、神についての議論から、身体の欲求についての議論へとすりかえているように思える。医者にとっては、魂の求める恋よりも、身体にそなわる欲求、つまり不足のほうが重要な意味をもつというわけであろう。

身体にとって重要なことは、欲求を充足させたり調和させたりすることであるが、その術は音楽に似ているとエリュクシマコスはいう。音楽も又、音についての調和を追求するからだ。その調和術は美の神ムーサのつかさどるところだ。だから、エロースも、調和が問題となる限りにおいて、ムーサとかかわることになる。ムーサ・ウラニアにはウラニア・アフロディテに属するエロースが、ムーサ・ポリュムニアにはパンデモス・アフロディテに属するエロースが、という具合に。

エリュシマコスはこのほかにも、エロースについてあれこれ語るのであるが、それでも語り足りないのか、何かい残したことがあったら、それをアリストパネスに補充してもらいたいと頼んで、バトンをアリストパネスに渡すのである。




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