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饗宴読解その六


ソクラテスが語り終わったことで、饗宴の参加者は全員発言をすませたことになった。そこで普通なら、各自の言論を比較しあったり、批判しあったりという段取りになるはずなのだが、じっさいアリストパネスがそのきっかけをあたえようともしたのだったが、そこへ一人の酔っ払いがあらわれた。アルキビアデスである。アルキビアデスといえば、ソクラテスの一時期の愛人として、またアテナイの衆愚政治の指導者の一人として知られる人物だ。そのアルキビアデスが、菫ときづたで飾った花冠を被って、笛吹き女の笛の音に送られながら現われたわけは、前日アガトンの優勝を祝う会に参加できなかったので、その埋め合わせをしに来たのである。

アルキビアデスは、花冠をアガトンにかぶせてやると、その脇に寝そべった。そこは、ちょうどアガトンとソクラテスの間にあたるのだが、アルキビアデスは他人からそれを指摘されるまで気が付かない。それほど酩酊しているのだ。ところが自分の隣にソクラテスが横たわっていることに気づくと、大いに驚きまた喜んだ。そこでアガトンから、花冠のリボンをいくつか取り戻して、それをソクラテスの頭に飾ってやった。そうすることで、ソクラテスへの自分の恋心を表明しようというのだ。

アルキビアデスに向ってアガトンが、この饗宴の趣旨を話し、君もぜひエロースをたたえる言葉を言いたまえとすすめる。すると、アルキビアデスは、そんなことをしたら、嫉妬深いソクラテスが許さないだろうと言う。何故ならソクラテスは、自分(アルキビアデス)がソクラテス以外の人間を恋したり、褒めたりすることに我慢がならないからだ。それゆえ自分はソクラテス以外のものを、たとえそれがエロースであっても、たたえることはできない。そうアルキビアデスが言うと、列席していた連中は、それではソクラテスをたたえてみるがよいとすすめる。このようにして、アルキビアデスによるソクラテス礼賛が始まるわけだが、その内容は、古来ソクラテスの人物像を知るうえで、大いに参考にされてきたのである。

アルキビアデスはまず、ソクラテスの風貌について触れる。ソクラテスは、「彫像屋の店頭に置かれているあのシレノス像にこよなく似ている」という。シレノスとはディオニュソスの年老いた従者で、馬の耳、馬の尻尾、馬の蹄を持っているといわれる醜悪な怪物だ。サテュロスのマルシュアスにも似ているという。サテュロスもディオニュオスの従者たちで、やはり人間と獣のあいの子である。そのうちのマルシュアスは、ヤギと人間のあいの子であり、笛が上手なことで知られる。ところがアルキビアデスは、そのマルシュアスよりもソクラテスの方が、上手な笛吹きだという。もっともソクラテスの場合には、楽器を使わないで、全く同じ効果をもたらすというのである。

ついでソクラテスの気質について触れる。ソクラテスは、「美しい人たちと恋に陥りやすく、いつも彼らのことで一生懸命になり夢中になっている」。その一方で彼は、「すべてに無知で何一つ知っていない」。そして「一生を通じ人々に対して空とぼけふざけ通している」というのだ。そんなソクラテスにアルキビアデスは夢中になり、一緒に寝たいと思ったが、そしてじっさいに同じ寝床で寝たのだったが、ソクラテスは何もしてくれなかった。まるで父親や兄弟と寝ているのと同じだった。そう言ってアルキビアデスは、ソクラテスへの自分の恋心を披露するのである。

さらにアルキビアデスは、ソクラテスの変わった振舞いとか意外な勇気について触れる。その最初の例は、ポチダイヤ出征の折のことだ。ここでの戦いは、紀元前433-32年に、ペロポネソス戦争の一環として行われた。その時のソクラテスは、三十歳台半ばである。その戦場でのソクラテスは、人並みすぐれた忍耐を示した。ほかの者らが飢えや渇きに対してだらしがないところ、ソクラテス一人は辛抱強く耐えた。また冬の寒さにも強かった。寒波が到来して、誰も屋外に出たがらない時にも、ソクラテスは粗末な外套を着ただけで、裸足で水の中を歩き回った。また、変わった振舞いということでは、同じ出征の折に、一日中思索に耽りながら戸外に立ち尽くしていたことがあった。かれは思索に耽りだすと、それが一定の実を結ぶまで、いつまでも続けるのである。

勇気という点では、デリオンからの退却に際して見せたソクラテスの振舞いに見ることができる。デリオンの闘いは、紀元前422年のことで、ソクラテスはその時四十歳台半ばだった。その退却の折ソクラテスは、ここアテナイでと同様、「肩をいからし闊歩して、横目でギョロリギョロリと見ながら」、あたりの敵味方をおちついて見回しながら進んでいったが、そんなソクラテスを、敵が攻撃することはなかった。敵が攻撃するのは、「顎を出して一目散に逃げるもの」なのだ。それはともあれ、「肩を怒らし・・・」の部分は、ソクラテスが日頃からそのように振る舞っていたことをしのばせる。

こんな具合に、ソクラテスには人間ばなれしたところがあり、むしろシレノスやサテュロスのほうに、風貌だけではなく、心映えも似ているのだ。ソクラテスの話すことは、「荷驢馬や、どこかの鍛冶屋、靴屋、鞣革屋であり、そしていつも同じ言葉で同じことを言っているように思われる。だから、かってを知らぬ愚かな者は皆、彼の話をあざ笑うことになるだろう。ところが、たまたまその扉が両方に開かれるのを誰か見つけて、その中に入るならば、まず第一に、世にある言論のうちでただ彼のだけが、内に知性を抱いていることに、人は気づくだろう。次いで、それがこのうえなく神々しい言論であり、徳の神像を最も多くその体内に持ち、理想的な人間になろうとする者が探求するにふさわしい対象の大部分に、いやむしろ、全体にわたっていることに、気づくだろう」

このように言ってアルキビアデスは、ソクラテスを理想の人間としてたたえるのだ。それに対して、誰も不満は言わなかったから、一同はソクラテスに対するアルキビアデスの敬愛に、とりあえず同感したのだろうと思われる。するとそこへ、たいへんな数の酔っ払いたちが押しかけて来て、銘々横になったので、宴席は大騒ぎになった。その騒ぎの中を、参加者たちは次第に退席したり眠り込んでいったが、主人のアガトンと客人のソクラテス、そしてアリストパネスだけは、大杯を回し飲みしながら、朝方まで起きていたのだった。

以上この対話編は、エロースについての議論を中心して、後半ではソクラテスの人物像を、アルキビアデスを通じて浮かび上がらせるという構図になっている。しかもそれが、対話がなされた時点より大分経過した後で、対話に参加したことのない者のまた聞きという形で紹介されている。何故そのようなまわりくどい構成を採用したのか、それには納得のゆく説明は見当たらない。プラトンの創作上の遊びと考えてよいのではないか。




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