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パイドン読解その四


以上の議論でソクラテスは、魂は肉体とは別に、それだけで独自に存在できるということを、無条件の前提としていたわけだが、その前提は、果たして盤石なものなのだろうか。そういう疑問をケベスが提出する。魂は肉体から離れると煙のように飛散消滅してしまうのではないか。こういう疑問をケベスが出したワケは、かれがソクラテスの意見に同意しておらず、魂の不死・不滅を信じていないからではない。ケベスはピタゴラス派の影響を受けた人として、むしろ魂の不死・不滅を信じているはずなのである。そのかれがこういう疑問を出したのは、魂の不死・不滅についての強固とした証明を、ソクラテスの力を借りながらなしとげたいという魂胆があるからだ。つまりケベスは、ソクラテスの魂の不死・不滅説に異論をとなえ、その異論をソクラテスに反駁させることで、魂の不死・不滅の証明を確固としたものにしたいわけである。この場合、ケベスの異論はアイロネイアの役割を果たす。そのアイロネイアを踏まえて、新たなディアレクティケーが始まるのである。

ケベスの異論に対するソクラテスの反論は多岐にわたる。純粋に論理的なものもあれば、神話的なものもある。それらは、今日の科学的な視点から見れば、荒唐無稽に思えるものもある。特に神話的な背景をもつ議論はそうだ。だが純粋に論理的な議論にしても、首をかしげたくなるところがある。そういう議論を読むと、こと論理的思考という点では、ソクラテスは、つまりプラトンは、アリストテレスほど厳密ではないとの印象を受ける。

ともあれ、ソクラテスの多岐にわたる反論、つまり霊魂不滅についての議論を、逐次見ていくことにしよう。まずは、生成の循環的構造による証明。これは論理的な必然性によって証明しようとするもので、純粋に論理的な証明に似ているが、したがって有無を言わせぬ明証性を保障するはずのものなのだが、そうすっきりといえないわけは、論理の前提となる要素、つまり基礎事実の認定にいかがわしいところがあるためである。

ソクラテスの議論は次のようなものである。あらゆるものは、その反対物から生まれる。夜は昼から、熱いものは冷たいものから、固いものは柔らかいものから。その逆もまたあてはまる。そう言えるわけは、この世界は二項対立に還元できるからである。あらゆる事物は、その反対物との間で二項対立の関係にある。この関係にあっては、あらゆる事物は、その対立の一方でなければならない。Aであり、同時にその反対物である非Aであることはできない。そこまでは破綻のない言い方だが、しかしソクラテスはそれより一歩進んで、Aは非Aから生まれるというのである。あらゆるものは、その反対物から生まれるということになれば、生もまた同じくその反対物から生まれるということになる。では生の反対物は何か。ソクラテスはケベスと共に、それは死であると確認する。そうであるなら、生は死から生まれるのである。死が生から生まれることはあらためて言うまでもない。

生が死から生まれるとは、いいかえれば、生者が死者から生まれるということである。これはどういうことか。死者というのは、死んだ人間という意味だから、その死んだ人間が、肉体が滅びるのに伴って魂まで亡びたとするなら、その死者が生者を生むとはいえなくなる。そういうことが言えるのは、死者は、肉体としては亡びても霊魂としては生きていて、その霊魂が再び生者として生き返るとした場合だけである。実際ソクラテスは、そのように理論構成する。死者の魂は、滅びずにハデスにいて、それが再びこの世の肉体と結びついて、生者として生き返るのだとするわけである。これには、循環論法の気味がある。つまり、証明しようとする事柄を、証明の前提にしているわけだ。ここでソクラテスが証明しようとしているのは、生者が死者から生まれるということだが、その死者がどこかで生きていないとそういう事態は起こらないから、死者はどこかで生きていて、それが生者を生む働きをするといっているわけである。

ともあれ、ソクラテスがこの部分で展開している議論は、オルペウス教の輪廻転生の説を想起させる。オルペウス教の輪廻転生説は、あらゆる生き物は永久に生成を繰り返すというものだ。そのプロセスは、円環的な循環という形をとる。その円環の中で、時間は一直線に進むのではなく、同じものが循環して生成する。霊魂も又そのプロセスをたどる。霊魂は永遠に生成を繰り返し、決して亡びることはないのである。

輪廻転生説は、ピタゴラス派も採用するところだから、ピタゴラスの徒であるケベスとしては、納得できるものだ。だが、それのみによって霊魂の不死・不滅を根拠づけるのは我田引水に陥ると思ったのだろう。ケベスは別の論拠による証明をも、ソクラテスに求める。その最初のものが想起説による証明だ。

想起説とは、次のような議論だ。我々がものごとやことがらをそれとして認識するのは、全く何もないところから、新しいものを認識するのではない。つまり我々はゼロから出発して対象を認知するわけではない。すでに知っていることを想起するのだ。想起という言葉は、とりあえずは連想というような意味で用いられている。我々は、竪琴を見るとその持ち主の少年を思い出すが、これが連想としての想起だ。連想とは、あるものを手掛かりにしてほかのものを想起することだが、我々の認識はすべてその想起にもとづいておこなわれる、というのがソクラテスの説なのである。

あるものをみて連想されるのは、そのものとかかわりの深い別のものばかりではない。たとえば我々は、二つのものの間に、それが等しいという関係を見出す。我々がなぜ、その二つのものを等しいと思うのか。それは、この二つのものの関係が、等しさを想起させるからだ。その等しさそのものというのは、この二つのものの間に実在しているわけではなく、ただ、この二つのものの関係が、その等しさそのものの一つの範例として思われるのだ。この二つのものの関係が、等しさそのものを想起させ、それにもとづいてこの二つのものの関係が新たな視点から見られる。こういう認識の在り方は、人間の認識活動のすべてにわたって見られる。ソクラテスはやがて、想起される等しさそのものやそれに似たものを、イデアという言葉で表現していくわけである。

その想起説がなぜ、霊魂の不死・不滅と結びつくのか。想起されるもの、やがてイデアと呼ばれるようになるものは、人間が生まれる前から備わっているものとされる。何故なら、生まれて以降の経験によっては、イデアのような超越的な理念は学びえないからだ。ソクラテスはそう考える。そうした理念は、個々の人間が、具体的な体験を通じて学べるものではない。人間の認識は、先天的なイデアがなければ成り立ちえないのだ。そうしたイデアは生得のものと考えるほかはない。その生得のものを、現実の精神活動の場に適用することで、我々の認識は成り立っている、とソクラテスは考えるわけだ。そういう認識のアプリオリな条件を持ち出すところは、ソクラテスがカントの先駆者といわれる所以である。

ともあれ、想起説が正しいとすれば、我々は生まれる前からなんらかの形で存在していたということになる。それは霊魂の形でしかありえない。したがって霊魂は肉体が滅びてもそれ自身としては滅びずに、永久に存在し続けるということになるわけである。




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