知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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パイドン読解その五


死から生が生まれること、したがって死者から生者が生まれることを確認したうえで、生者を生んだ死者は生者が生まれるまえから存在していることがわかった。その存在は魂としての存在である。したがって魂は、生者が生まれる前からずっと存在していたのであり、そのことは魂が不死・不滅である証拠である。このようなソクラテスの議論を、ケベスはじめ聴衆はみな納得したようなのであったが、しかし、といってケベスは別の疑問を突き付ける。魂が、生者が生まれる前から存在していたことは認めるとしても、人が死んだならば、そのまま存在し続けるとは限らない。魂は、人の死とともに終りをとげてしまうのではないか。もしそうではなく、魂は人が死んだ後も生き続けると主張するためには、今までとは別の論証が必要ではないか、というのである。

ケベスのこの疑問に対して、ソクラテスはもっともな疑問だと言って、魂が人間の死後も存在し続けるということの論証にとりかかるのだ。その論証というのが、ちょっと変わっている。ソクラテスは、ケベスが魂の死を、魂が散り散りになって消えてしまうというふうに表現していたことを踏まえ、魂の死を魂が散り散りになることだと定義したうえで、そのようなことが果たしてありうるのか、と反問するのである。もし魂が散り散りになることがないならば、魂は死なないという理屈である。

ここでソクラテスは、散り散りになることがどんなことであるか、それを定義する。散り散りになるためには、そのものは合成されたものでなければならない。何故なら単一で、自己同一的で、それ以上分解できないものは散り散りになることはできないからだ。ところで、あらゆるものは、合成的か非合成的かの、どちらかである。合成的なものは構成要素に分解されて、その結果散り散りになることができる。それに反して、非合成的なものは、単一で自己同一的でそれ以上分解できない。つまり散り散りになることはない。このことを前提にした上で、魂が非合成的であることを証明すれば、魂は散り散りになることはないと証明されたことになる。ということは、魂の死とは、魂が散り散りになることだったのだから、魂が散り散りにならないということは、魂は死なない、つまり不死だということにつながる、というわけである。

そこで、非合成的とはどういうことか、ということが問題になる。とりあえずは、「常に自己同一を保ち同じようにあるもの」だと定義される。その例としてソクラテスは、「等しさそのもの」、「美そのもの」など「正にそれであるところのもの」をあげる。そうしたものは、「単一の形相であり、それ自身だけであるのだから、常に同じように自己同一を保ち、いかなる時にも、いかなる仕方においても、けっして、いかなる変化をも受け入れない」のである。

こうしたものは、「思惟の働き以外のいかなる能力によっても、これをとらえることはできない」。その他の諸器官の働き、つまり感覚が捉えることができるのは、常に変化してやまない現象ばかりであって、その現象の背後にあって、不可視的ではあるが、物の形相あるいは本質というべきものは、思惟だけがこれをとらえることができるのである。

ここでソクラテスは、合成的なものと非合成的なものの対立を、目に見えるものと目に見えないものとの対立に置き換える。目に見えるものは変化してやまない現象なのであるから、それはさまざまな要素から合成されているのであり、それに対して目に見えないものは、思惟の働きだけがこれを捉えることができ、しかも常に自己同一的で変化しないものなのだから、非合成的なのである。

このように押さえたうえでソクラテスは、魂は、目に見えるものと目に見えないものと、どちらのほうにより似ているかと問う。無論目に見えないもののほうにだ。ここまでくるとソクラテスは、魂の不死を証明しようとする試みをいきなり放棄してしまう。あたかもこれで魂の不死についての証明を終えたといわんばかりなのである。これ以後しばらくの間、ソクラテスの話は、魂が不死であることを前提としたような様相を呈するのである。

ソクラテスはまず、魂は神的なものに、肉体は死すべきものに似ていると確認する。神的なものは不死であるし、肉体が死すべきものなのはいうまでもない。そこでソクラテスは、「一方には神的であり、不死であり、可知的であり、単一の形相を持ち、分解されえず、常に同じように自分自身と同一であるものがあるが、この種のものに魂はもっとも似ているのであり、他方では、人間的であり、可死的であり、多様な形をもち、知性的ではなく(無思慮であり)、分解可能であり、けっして自分自身と同一ではないようなものがあるが、今度は肉体がこの種のものにもっとも似ているのである」と結論付けるのである。この結論が容認されるなら、魂が不死であることは、より強固な前提を以て証明されたということになろう。

ついでソクラテスは、人が死んだ後に魂がどのようになるか、その行方についてこまごまとした議論を展開する。その議論は、すでに魂の不死が証明されたことを前提としている。生前に肉体の誘惑に負けず、孤高を保った魂は、死後は肉体の影響からすっかり解放されて純粋なものになる。それに対して生前に肉体の誘惑に負けて放蕩な生き方をしていた魂は、死後も肉体から解放されず、不純な状態にとどまる。純粋な魂は神々の国に迎えられ、そこで高貴な状態になるのだが、不純な魂は、この世の未練から解放されず、いつまでも自分の墓のまわりをうろつくような状態になる。

それゆえ、神々の国に迎えられ、神々の種属と交われるようになるためには、魂を純粋な状態に保たねばならない。それを実現するのは哲学をすることだけだ。人は哲学に没頭することで、肉体の誘惑を軽蔑し、高邁な境地に自己を高めることができる。哲学とは、単に知的な関心に応えるだけではない、魂を純粋な状態に導く唯一の道なのだ。

とにかく、ここでのソクラテスの議論は、肉体を軽蔑し、魂の純粋さを希求するものになっている。魂を純粋に保つためには、一切の肉体の誘惑をはねのけねばならない。肉体の誘惑は強烈なもので、多くの魂はそれに屈する。その結果、「魂は、肉体が肯定することならなんでも真実である、と思い込むようになる。というのは、肉体と同じことを思い、同じことに悦びを覚えることによって、僕が思うには、魂は、肉体と同じ性質を帯び、同じ養分で育てられることにならざるをえない。そうすれば、けっしてハデスの国へ浄らかなままで到達できず、常に肉体でいっぱいになったままでこの世を立ち去らざるを得ない」

以上は、いまにもこの世を立ち去らんとしているソクラテスが、自分自身に向かって言っているように聞こえる。自分は哲学者として、肉体の誘惑に負けず、哲学に専念してきたので、魂が肉体でいっぱいになってはいないはずだ。つまり自分の魂は純粋なはずだ。それ故自分の魂は、死後肉体から完全に開放されて、浄らかなままでハデスの国に旅立つことができる。そういう信念があるからこそ、自分は死を恐れない、恐れないでいることができる。でなければ自分は、自分の死を祝福できず、かえってそれを呪わねばならないだろう。そんなソクラテスの率直な気持ちが、以上の言葉からは伝わってくるのだが、その信念は、以上見て来たように、魂の不死・不滅についての明晰な証明には、どうも基礎づけられているとはいえないようなのだ。




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