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パイドン読解その六


以上でソクラテスは、魂は合成されたものではなく、不可分で単一の形相をもつものであり、常に自己自身と同一であることを理由にして、魂の不死・不滅を証明したつもりになっていた。ソクラテスの定義によれば、亡びる、つまり死ぬとは、散り散りになって消え去ってしまうことを意味するから、散り散りにならないことを証明すれば、不死であることを証明したことになるからだ。ところがその説明に、ケベスとシミアスは納得しないようなのだ。しかし死にゆくソクラテスを前にしては、その疑問を率直に言えない。そこでもじもじしていると、ソクラテスは遠慮せずに疑問をぶつけたまえと言う。君たちが私に遠慮しているのは、私が死を前にして悲しんでいると思っているからだろう、そんな遠慮は無用だ、私は、悲しむどころか陽気な気持ちでいるのだ、と。

そこでソクラテスは、自分を白鳥に譬える。白鳥は死なねばならない時になると、とりわけ力いっぱい、また極めて美しく歌う。死ねば自分の主人である神アポロンのみもとに行けることを知っているからだ。白鳥は、それどころかすべての鳥は、苦痛に苦しんでいる時は決してうたわない。自分もそれと同じなのだ。自分がこのように、死を前にして陽気な気分で対話を楽しんでいるのは、死後神々の国へ迎えられると知っているからなのだ。だから私が苦痛で苦しんでいるなどと思わないでほしい。そう言ってソクラテスは、ケベスとシミアスに対話の続行を促すのだ。

そこでケベスとシミアスは、ソクラテスの説への疑問を提示する。まずシミアスから。シミアスは、魂は肉体の死と共に亡びるのではないかと強く疑っている。というのもシミアスは、魂は肉体の調和だと考えているからで、それならば肉体が滅びれば、魂も亡びるのではないかというのである。また、ケベスは、魂が肉体より長命で、したがって様々な肉体に宿ることができるとしても、何度も肉体をまとっているうちに、ついには疲労し衰弱して、滅亡しないという保証はないのではないか、という。これらの疑問にソクラテスは、それまでとは別の見地から反論を加えねばならないだろう。

ソクラテスとケベスらのやりとりを聞いていたパイドンたちは、ソクラテスの論証が完璧だと思っていたところへ、ケベスらが異論を唱え、その異論が迫力あるように受け取れたので、すっかりうろたえてしまった。そんなパイドンたちの様子は、打ち負かされて逃走する敗兵のようだったが、そんなかれらをソクラテスは、再び戦列に取れ戻し、議論をともに考察するように励ましたのであった。言論が確実でないことを理由に、言論嫌いになってはいけない、と言いながら。

ソクラテスはまず、シミアスの疑問を論破しようとする。その論法というのは、魂想起説と魂調和説とを並べ、これらのものが両立しないことを論拠とするものだ。もし魂想起説を認めるならば、調和説は成り立たない。その逆に、調和説に立つならば、想起説は成り立たない。したがってどちらか一方だけが真であると言えるのだ、という論法である。

想起説においては、魂は人間の肉体の中に入る前から存在していた。これはすでにケベスも含めた議論の中で確認されたことである。ところが、調和説によれば、魂は肉体の調和ということになる。つまり合成されたものだということだ。その場合、魂の調和を実現するのは、肉体の諸要素である。その肉体の諸要素は、魂が肉体に入ったあとに生まれるものである。だがこれでは理屈にあわない。一方では魂は肉体に入る前から存在していたといい、もう一方では魂は肉体の諸要素の調和であるというのは、矛盾論法にほかならない。そう言ってソクラテスは、この矛盾しあう二つの説、想起説と調和説のどちらか一方を選びたまえと迫るのである。ケベスといえども、いまさら想起説を否定できないので、調和説を否定せざるをえない立場に追い込まれるというわけである。

ともあれ、調和説が正しいと仮定すると、色々不都合が起きる。調和というのは、物と物との関係である。ある要素と別のある要素とが、しっくりと関係しあうことを調和という。その場合、調和そのものは、その要素同士の関係なのだから、調和自体には自立性はない。あくまでも要素同士の関係ということで、要素に対しては従属的な位置にある。これを魂と肉体との関係に類推すれば、魂は肉体に従属するということになる。肉体の要素同士の関係が魂の調和となるからだ。しかしこれは、魂と肉体の関係についての正しい見方ではない。常識の教えるところは、魂は肉体の支配者なのであって、従者ではないのだ。しかし調和説に立てば、魂は肉体の支配者ではなく、従者だということになってしまう。まあ、これは論証というよりは、傍証といったほうがよいが、議論に勢いを与える効果はあるだろう。

ついでソクラテスは、ケベスの疑問に答えようとする。ケベスの疑問とは、魂はたしかに肉体に入る以前から存在していたが、肉体から離れると、つまり死ぬと、やがて消滅するのではないか、というものだった。ケベス自身は先に、魂はいつつかの肉体をまとった後に、ついに疲労・衰弱して死ぬというふうに言っていたのだが、肉体から離れてついに消滅するとしている点では、肉体の数はあまり問題にならない。十人の肉体をまとったあとで消滅するのも、一人の肉体をまとったあとで消滅するのも、大差はない。したがって、ケベスの議論を突き詰めて言えば、魂は肉体に入る以前から存在していたが、肉体が滅びるのと一緒に消滅するということになる。このケベスの議論をソクラテスは、シミアスのそれより深刻に受けとめる。魂の、肉体の死後における不死・不滅は、より手の込んだ論証を必要とするというわけである。

ケベスの提起した問題をソクラテスは、「生成と消滅について、その原因を全体的に徹底して論究することを要求している」と指摘する。魂がもしも消滅するのであれば、なぜ、どのようにして消滅するのか、を明らかにしなければならない。消滅するものであれば、生成についても視野に入れねばならない。なぜなら、消滅するのは有限なものであって、有限なものには終りと並んで始まりもあるからだ。それ故、魂について、その始まりと終わり、いいかえれば生成と消滅について明らかにしない限りは、魂を正しく理解したことにはならない。逆から見れば、魂の生成と消滅について正しく説明できない限り、魂の消滅について主張することもできない。そんなふうにソクラテスは、問題を取り上げようとしているようだ。

生成と消滅については、自然学者たちがさまざまな説を表明している。そこで自分もかれらの説を検討し、それが魂について有意義なことを語っているかについて確かめてみたが、それら自然学者は、物質の生成・消滅について言及するばかりで、魂については何も語ってはいない。そこで自分は、魂の問題については、自然学者に頼ることをやめた。というより、自然学者のいうことを信じないことにしたのだ、とソクラテスはいう。

アナクサゴラスは、一応自然学者に分類されているが、かれは「万物を秩序付け、万物の原因であるのは理性(ヌース)である」と主張した。つまり精神的なものを、万物の原因としたわけだ。もしそうなら、魂の生成と消滅についても、有意義な意見が聞けるのではないか。そうソクラテスは思って、アナクサゴラスの説を詳細に検討してみた。

その結果ソクラテスは、アナクサゴラスにも失望した。ソクラテスがアナクサゴラスに求めたものは、世界が存在していることの究極的な原因だったのだが、そしてそれをソクラテスは精神的原理だと考えていたのだが、アナクサゴラスが現実に言っていることは、そういう究極の原因ではなく、たとえば人間が歩くのは腱の働きが原因であるといった具合の、直接的な原因ばかりなのだ。ソクラテスはそういう原因を認めないわけではなく、一定の意義を認めるものであるが、しかし究極の原因を語るべきところで、それを語ってはいけない。それでは「真実の原因と、それがなければ原因が原因ではありえないものとが、別々のものであることを」、区別できないからだ。




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