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テアイテトス読解その六


テオドロスを相手にした議論を終えると、ソクラテスは再びテアイテトスを相手に議論を再開した。ソクラテスとしては、それまでの議論を通じて、プロタゴラスとヘラクレイトスの説は反駁できたと思っている。そのことで知識は感覚であるという主張の根拠を崩せたと思うのだが、しかし知識は感覚であるということについての、ストレートな反駁にはなっていないようでもある。それゆえテアイテトスとしても、プロタゴラスやヘラクレイトスの説が間違っているとは認められても、そのことで知識は感覚であるという自分のとりあえずの主張が、全面的に論駁されたとは思えない。そこでソクラテスとしても、知識は感覚であるという主張に正面からいどんで、それを反駁しにかかるのである。

読者としては、なぜソクラテスはそもそもの始めから、知識は感覚であるという主張に正面からいどまずに、プロタゴラスやヘラクレイトスの説の反駁から始めたのか、いささか首をひねりたくもなるだろう。それにはソクラテスの真の意図が絡んでいるようである。ソクラテスとしては、知識は感覚であるという主張を論駁することは、そんなに重要なことではない。ところが、プロタゴラスやヘラクレイトスの主張は、ソクラテスにとっては、どうにも許せないものである。できたらそれらの主張を完膚なきまでに論駁したい。日頃そう思っていたところ、たまたま知識は感覚であるという主張と出会い、その主張がプロタゴラスやヘラクレイトスの説と共通する理屈からなっていることを踏まえて、これはいい機会だと思って、知識は感覚であることを否定する言論の一部として、それらの論駁に精を出したのではないか。

ともあれソクラテスは、感覚というものがどのようなものなのか、それを定義することから議論を始める。その議論は、例によって奇妙なところもあるのだが、一応ソクラテスの言うことを追ってみよう。ソクラテスは、感覚には、われわれがそれを通じて感覚するものと、それによって感覚するものとがある。この両者がどのように違うのか、ソクラテスは明示していないのであるが、どうも行間から推測すると、それを通じて感覚するものとは、身体の器官、目とか耳とか舌とかいったいわゆる感覚器官を通じて感覚するところの具体的な感覚であり、それによって感覚するものとは、身体的な感覚器官ではなく、心によって感覚されるもののことらしい。つまり感覚には二種類あって、その一つは視覚とか聴覚とか味覚とかいわれる個別の感覚、もう一つはそうした個別の感覚をもとに、それらの存在を確認したり、それら相互の関係を指摘したりするものである。そして後者は、心がその作用を担うものであるから、感覚というよりは、思量といったほうが適切である、といった具合に議論を誘導していくのである。

ここらあたりのソクラテスの議論の進め方は、かなりな強引さを感じさせもするのだが、一応感覚と思量とは異なったものだと仮定したうえで、感覚そのものには知識を構成するような要素、つまりものの存在とか真理とかは含まれていないと断言する。それらは思量によってはじめて捉えられるのだ。こういったわけでソクラテスは、知識は感覚である、とするテアイテトスの仮説を、とりあえず論駁したのである。知識は感覚であるとはいえない、というわけである。では知識とは何なのか。ソクラテスはあらためてそうテアイテトスに問いかけ、それに対してテアイテトスは二つ目の仮説を提示するのである。

テアイテトスの二つ目の仮説とは、ソクラテスの議論を踏まえて、思量つまり思いなしに着目したものだ。知識は感覚ではなく、感覚を含めて人間の心が行う思量と関係があるらしい。だが思量すなわち思いなしには、真なるものと偽なるものがある。偽なる思量を知識だということはできない。そこで、知識は思いなしの真なるものである、ということになる。

そこで思いなしの真なるものとは何か、それを定義することが必要になる。その定義の仕方というのが、かなりユニークなものである。また煩瑣極まりないといった印象を受ける。これを単純化して言うと、真を正面から取りあげるのではなく、その反対である虚偽を通じて考えようというのである。思いなしのうちで、虚偽ではないもの、それが真の思いなし、あるいは思いなしの真なるものだというわけである。

ソクラテスはまず、「虚偽を思いなす人というのは、知っているそのものをそのものであると思わずに、それを何か別の知っているものであると思うのであろうか、すなわち双方を知っているが、双方を知らない者というわけなのであろうか」というような奇妙な物言いをする。そのうえで、人が何かを知っていてししかも知らないという事はあり得ないという理屈で、虚偽の思いなしは不可能だと断言する。ここからこの対話篇のハイライトの一つである虚偽不可能論の議論が展開されるのである。

上の議論は虚偽を、知っていることと関連付けたものだが、二つ目の議論として、あるとあらぬに関連付けたものもある。それは、「およそ何か一つを思いなす者は、何かあるものを思いなす」のだという主張から始まる。これに対して、「およそあらぬものを思いなす者というのは、一つもないものを思いなしている」。ところが、「およそ一つもないものを思いなす者というのは、(一つも思いなすことがない者なのだから)全然思いなしていない」のである。したがって、あらぬものを思いなすというのは、論理的に不可能である。つまり虚偽でありようがないということだ。

以上の議論は、思いなしには虚偽の働く余地はないということを意味しているのだが、それでは、真なる思いなしがいかなるものかについて考える糸口がなくなってしまう。そこでソクラテスはもう一度知っているものの散り違えの問題に立ち返る。先ほどは、知っているそのものをそのものであると思わずに、それを何か別の知っているものであると思うことをとりあげ、それは知っていることを知らないという事態を意味するから論理的にあり得ないとしたのであったが、改めてよく考えると、知っているあるものを、別のあるものと取り違えることはよくあることなのだ。そのような取り違えをわれわれは虚偽と言えるのではないか。その様に言ってソクラテスは、取り違えのメカニズムについて、極めて微細な議論を展開していくのである。

取り違えにはしかし色々なケースがあって、ケースごとに問題を整理しておかないと、粗雑な議論になってしまう。虚偽の取り違えと、虚偽にはならない取り違えをきちんと区別し、虚偽の取り違えのメカニズムを詳細に検討することで、虚偽の本質が理解でき、したがって真とはなにかについても理解することができる。

たとえば、異なるものを双方とも思いなしながら、その異なる一方が異なる他方であると思いなすことは不可能である。また、異なるものの一方だけを思いなして、他のもう一方を少しも思いなしていない場合には、この異なる一方を他のもう一方であるなどと決して思いなすこともない。従って、異なるものの双方を思いなすとしても、また片方だけを思いなすとしても、(違った一つのものを他のものと思うところの)思い違いは生じる余地がないわけである。では取り違えのどのようなケースならば、虚偽だといえるのだろうか。




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