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テアイテトス読解その八


知識は感覚であるという主張に続いて、知識は思いなしの真なるものであるという主張も、ソクラテスによって論駁された。後者の論駁は、思いなしというのは、知識によってではなく弁論による説得によって形成されるのがほとんどなのだから、それからして、知識と思いなしとが密接なかかわりをもつとは考えられないという理由によるものだった。そこでテアイテトスは、ソクラテスの言うとおりに、思いなしを弁論=言論と関連付けたうえで、知識とは真なる思いなしに言論を加えたものだというふうに主張を変えるのである。たしかにソクラテスの指摘するとおり、真実な思いなしだけでは、それについて言論が加わっていなければ、知識の範囲には属さないと認めるのである。このテアイテトスの新しい主張についても、ソクラテスはやすやすと論駁してしまう。その論駁の仕方というのが、またもやトリッキーなものを感じさせるのだ。

ソクラテスは、テアイテトスが言論を知識の構成要素として持ち出したことを踏まえ、何が言論の対象となるかについての議論から始める。その議論というのが人の意表を突くものなのである。

われわれが対象とするものには、ほかのものがそれから合成されているような基本的なもの、つまりほかのものの要素となるようなものと、その要素から合成されたものとがある。要素となるものは、「それ自体としてそれ自体にとどまる限り、ただその名前を呼びうるのみであって、それ以上ほかに何も付け加えて言うことはできないのであって、『ある』とも『あらぬ』とも言うことはできないのである。何故なら、そうすれば、既に『有』(あるということ)とか『非有』(あらぬということ)とがそれに付加されていることとなるであろう。しかるに、もしいやしくもひとがただまさにそのものだけを言おうとするのであるならば、何ひとつとして外から持って来てこれに付加すべきものはないはずだからである」

こういう基本的な要素については、言論をもって語られることは不可能なのである、とソクラテスは言う。「なぜなら、これにはただ呼名されることだけが属するのであって、それ以外のものは属していないからなのである。つまり、それが受け入れるのはただ名称だけなのである」。

ところで、それについて言論の受け答えが出来ないものは、それについて無知識というべきである、とソクラテスは妙なことを言う。他のものにとって、その合成要素とはなるが、それ自体としてはそれ自体以外の何物でもないものについて、それが言論の対象とならないのはともかくとして、そのゆえに、知られえないものとする根拠は何か。というのもソクラテスは、これらの構成要素については、ひとは言論できないことを以て、無知識にとどまるといっているからだ。

ともあれ、ソクラテスは、要素については、人は無知識、つまり不可知識であり、それから合成されたものについては、それが言論できることを以て、可知識であるというような奇妙な説を立てる。そのうえで、構成要素とそれから合成されたものの例として、字母と綴りの関係を取り上げる。字母とはアルファベットの文字の如きもので、綴りとはそのアルファベットを組み合わせたもので、言語の最小単位、つまり名辞とか動詞とかいったものに相当するものである。

続いてソクラテスは、もっと奇妙なことを言い出す。綴りは字母を合成してできたものだが、それによってある一つの言葉ができる。その言葉はそれ自体が、ある種の概念をあらわすことがあるが、その概念には、それ以上分割できないような単一のものをあらわすものもある。こういうものについては、字母の場合と同じように、言論が及ばないケースがある。たとえば、石という言葉を考えてほしい。石というものは、概念的に説明できるものではない。人が石を理解するのは、実物の石を見ることを通じてである。そのようなものをあらわす言葉を指示語というが、字母を組み合わせてできた綴りに対応するような言葉には、この指示語と呼ばれるものが多く含まれている。そうした言葉は、字母同様に、言論が及ばないということは、理解できる。

しかしソクラテスは、綴り全体が言論の及ばないものと断言しているようなのである。ソクラテスは、全部と全体との相違とか、総和と総体との相違とか、かなり末節的な議論もしているのだが、その議論も、字母、綴り、綴りであらわされた言葉相互の関係についての、以上のような議論の例として語られているのである。

そうした議論の末にソクラテスは、「綴られたものもかの基本的なものも、いやしくもそれがもし部分をもつことがなくって、単一の形相をなしているのだとすれば、同じ品種に帰着してしまうのではないか」というのである。だが、この議論は、カテゴリー・ミステークを犯しているといわざるをえない。字母が単一であるのと、綴られた言葉が単一の形相をあらわしているのとは、次元の異なることだ。その異次元のものを同じ範疇にくくるのは、カテゴリー・ミステークだからだ。

ともあれソクラテスは、単一のものについては言論の対象とはならないというわけだから、ソクラテスが言う意味で言論の対象となるのは、言葉を組み合わせて話される言説あるいは対話のようなものになるらしい。その言説についても、ソクラテスは色々と条件をつける。その条件というのは、語られた対象について正確であるためには、その対象を他のものから明確に区別する特徴をあげることだとも言っている。これは対象の本質規定を、類と種差によって説明しようとするアリストテレスの論理学的な立場を先取りしたものといってよい。

だがソクラテスは、以上のような議論を、テアイテトスの主張を吟味する材料として有効に利用しているとは言えない。それとは無関係に、いわば無造作に、テアイテトスの主張、即ち知識とは真なる思いなしに言論の加わったものだという主張を、あっさりと否定するのだ。その否定の仕方というのは次のようなものだ。「知識を『何がそれであるか』とわれわれは探しているのに、差別性の知識にせよ、何の知識にせよ、とにかく知識を加えた正しい思いなしがそれであると主張するなんていうのは、おめでたくまた愚かしいことなのだ」

こんなわけでソクラテスは、知識とは何かについてテアイテトスが退出した主張を三つながら否定し去ったのであるが、それ以外の主張は自分の腹の中には見当たらないとテアイテトスが言うと、知識とは何かについての探求をあっさりとやめてしまうのである。「かの産婆術がわれわれに対して、これは折角生みだされたけれども、虚妄なものだから、養育には値しないと申し渡していることになるのではないか」と言って。

結局この対話編は、当初もくろんでいたことを実現しないままに、終わってしまうのだ。それはどういうことなのだろう。ソクラテスの対話編は、だいたいが一定のモチーフを持っていて、そのモチーフの実現を目指して進み、最期には実現されるというのが基本的なパターンであって、この対話篇のように、モチーフの実現が途中で放棄されるというのは、プラトンの対話篇としては珍しい。もしかしたらプラトンは、知識とは何かについて、それを自分なりに納得のいくように定義するのが目的だったわけではなく、この対話篇を借りて、ほかのことを言いたかったのではないか。この対話篇の中には、当時のアテネの風潮についての厳しい指摘とか、本筋とは関係のないような些末な議論とかが多く含まれているが、実はそちらのほうが、プラトンが力を込めて言いたかったことではないのか。




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