知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




藤沢令夫「プラトンの哲学」


藤沢令夫はプラトンを、ギリシャ文化の大きな伝統の中に位置づける。一つは対話を重視する伝統、もう一つはイオニアの自然哲学をはじめとするギリシャ人の宇宙観だ。この二つの伝統がプラトンにおいて融合し、壮大な思想体系が作られたというのが藤沢の見立てである。対話の伝統についてはともかく、自然哲学については、プラトンは物質的な自然よりも精神を重んじたという理解が定着しているので、藤沢の見立てはユニークと言えよう。

プラトンの著作は、そのほとんどすべてが対話という形式をとっている。これには、プラトンは師ソクラテスの活動をありのままに残すことが目的だったのであり、そのソクラテスの活動が対話という形をとっていた以上、当然のことだったという見方もあるが、ことはそう単純なものではない。プラトンの対話編は、比較的早い時期から彼自身の思想を表明していたところがあり、中期以降に、イデア論やプシュケー論そして哲人統治論を主張するようになると、それはもはやソクラテスの思想をそのままに語ったというよりは、ソクラテスの口を借りてプラトン自身の思想を語ったものといってよい。だから、プラトンが、自分の思想を語るのに対話という形式をとったことには、それなりの理由があると言わねばならない。それを藤沢は、ギリシャにおける対話の伝統を、プラトンも踏襲したととらえるのである。

ギリシャにおける対話の伝統は、藤沢の整理によれば次のようなものだ。ギリシャの文芸の歴史は、ホメロスやヘシオドスの叙事詩に始まり、アルキロコスやサッポオなどの叙事詩を経て、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの悲劇へと発展していった。そのいづれにも、対話の精神が息づいている。その場合対話とはロゴスを体現したものである。叙事詩にはそのロゴスが素朴な形であらわれ、抒情詩には内面化した形であらわれる(モノロゴス)。そして悲劇になると、ロゴスはコロスと対話とに分裂するが、そのうちコロスの部分を省いて対話だけを追求すると、そこにプラトンの対話篇(ディアロゴス)が成立する。こういう流れの中において、プラトンの対話編は、その究極の形態という位置づけになる。つまりプラトンの対話編は、ギリシャの文芸の歴史において、出現すべきものとして出現した、必然的な由来をもつものだった、というのが藤沢の見立てである。

こうしたプラトンの批判者として、藤沢はニーチェをあげる。厳密にいえば、ソクラテスの批判者としてのニーチェである。ニーチェは「悲劇の誕生」のなかで、ソクラテスを厳しく批判した。その理由は、悲劇においてコロスの比重が減少し、対話の部分が増大することは悲劇の堕落あるいは自殺というべきだが、そういう傾向をソクラテスが大いに促進したというのである。ニーチェによればソクラテスは、アポロ的なものの代表者ということになり、そうしたアポロ的なものがディオニュソス的なものを抑圧する傾向に、時代の流れを指摘するとともに、そこに人間の堕落を見たのだった。

ニーチェのこうした見方は、理性よりも情動を重んじる姿勢から来ているわけだが、ソクラテスやプラトンのように、魂の善き生き方をめざす者にとっては、ロゴスつまり理性を重んじることは当然だったのである。とくにプラトンにとっては、人間の思考とは魂のうちなる対話と考えられた。言葉(ロゴス)は本来的に対話(ディアロゴス)的な本性をもっているのである。それゆえ彼が、対話という形式を通じて、自分の思想を展開して見せたことには必然的な理由があったということになる。

次にプラトンの自然観。大方の見方では、プラトンは魂を重んじるあまり、物的な自然を軽視したということになっており、その限りでイオニアの自然哲学や、いわゆるソクラテス以前の哲学者たちとは断絶しているという意見が優勢である。しかしそうした見方は間違っていると藤沢は言う。藤沢によれば、プラトンほど、自然を生命なき物質とみなしてはならないことを、生涯一貫して強く説きつづけた哲学者はいないのである。

プラトンの自然観への誤解は、イデア説の誤解から生まれている。イデアを物質と対立させて理解すると、大事なのはイデアであって、物質的な自然はその似姿にすぎないということになる。イデアはプシュケー(魂)の働きと結びついているから、プシュケーすなわち精神的なものと自然すなわち物質的なものは対立関係に陥り、その挙句に物質的な自然は軽視される。しかし話はそう単純なものではないと藤沢は言うのである。

タレス以来の自然哲学の伝統においては、魂と物質とは未分離一体であった。彼らが宇宙の原理を水だとか空気だとか言った場合、それは物質としての水ではなく、魂と物質とが未分離に一体となった原理であった。その原理を通じて、自然界と精神界とを連続的・統一的に説明しようとした。そういう伝統からの逸脱をもたらしたのがデモクリトスらの原子論だ。原子論は、魂とはまったく別の物質的なものを説明原理として、魂を含むあらゆるものをそれによって基礎づけた。それに対してプラトンは、魂と物質とを未分離一体のものと捉え直すことで、自然の概念をギリシャの伝統に連れ戻したと藤沢は言うのである。

そうしたプラトンの宇宙観は、「ティマイオス」の中で壮大なイメージで展開されている。この書物の中で展開されたコスモロジーは、魂と物質が融合した調和ある世界への賛美である。そう藤沢は言って、自然観・宇宙観においても、プラトンはギリシャ思想の伝統の中に生きていると主張するのである。




HOME プラトン | 次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである