知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




ヘゲモニーと知識人:グラムシを読む


ヘゲモニーは政治的な指揮権の確立をめぐる概念である。ある集団がほかの集団に対して支配的な力を行使する事態を意味する。これをロシアの社会主義者たちが、階級対立に適用した。その場合には、労働者階級の、農民その他の階級に対する指揮権というような意味合いに使われた。レーニンもそのような意味で使っていたが、やがて「プロレタリアート独裁」という言葉をもっぱら使うようになった。レーニンにあっては、プロレタリアートこそが、ほかの階級を指揮、支配して政治的な権力を独占的に掌握しなければならない。それを「プロレタリアート独裁」と呼んだわけである。

これに対してグラムシは、独裁という言葉を避けて、ヘゲモニーという言葉を使い続けた。理由はいろいろあるが、もっとも大きな理由は、独裁という言葉があまりにも政治的に偏り過ぎており、しかも暴力的なイメージを強く感じさせることであった。グラムシによれば、ある階級のほかの階級に対する指導力は、単に政治的影響力の分野にとどまらず、法的・文化的分野も含めて、上部構造のあらゆる分野で発揮されるべきものである。暴力を通じて政治的に勝ち取った権力は基盤が弱いものだ。権力は大衆の広範な同意があってはじめて安定する。それをもたらすのがヘゲモニーというわけである。したがってヘゲモニーは、グラムシにあっては、上部構造全般にかかわる概念ということになる。

また、プロレタリアート独裁というと、血なまぐさい戦いを想起させる。レーニンは、プロレタリアート独裁が革命を通じて確立されると考えており、したがってある階級つまりプロレタリアートが、敵対する階級ブルジョワジーを、暴力によって転覆するというふうにイメージされがちだ。そうした戦いのイメージは、短期決戦的な性格が強い。しかしプロレタリアート革命というものは、いますぐ実現するようなものではない。グラムシは、ある社会構造体はその内部矛盾がピークに達するまでは崩壊しないものと考えていた。内部矛盾が深化しないうちは、その社会構造体は存続のエネルギーを持ち続けている。そういう段階で、いくらプロレタリア独裁を目指しても無駄である。とくにそれが暴力的な方法で追及されれば、もっと巨大な暴力でつぶされてしまうのが関の山である。しかしだからと言って、内部矛盾が深化しないうちは何もしないでいいということにはならない、とグラムシは考える。そういう時期こそ、プロレタリアートによるヘゲモニー確立への努力が意味を持つ。ヘゲモニーは、上部構造全体にかかわるものだと言ったが、その中で文化的な分野は特に大きな意義をもつ。文化的な分野で社会をリードすることで、革命への準備をすることができる。それをグラムシは、イデオロギーの戦いと呼んでいる。イデオロギーというのは基本的には、ある階級の利害を観念的に表現したものだが、その表現はある階級だけのものというような狭いものではなく、すべての階級、つまり国民全体の利害関心を集約したようなものになろう。そうでこそ、そのイデオロギーは広く社会に流通することができる。

そこで、プロレタリアートによるヘゲモニー追及の努力も、プロレタリアートの狭い利害にとらわれてはならない。それは、農民や中小企業者をはじめ、社会の広範な階層の利害を考慮したものでなければならない。プロレタリアートの狭い利害関心をグラムシは「同業組合的利害」と呼び、それにこだわることを強く批判している。「プロレタリアートは、同業組合的利害を犠牲にして、諸矛盾を克服しなければ、支配階級となることはできません。たとえ支配階級になっても、階級の全般的・恒久的利害のためにその当面の利害を犠牲にしないなら、そのヘゲモニーと独裁を維持することはできません」。グラムシはまたこうも言っている。「プロレタリアートは、階級として統治能力を身につけるために、あらゆる同業組合的残滓やあらゆる偏見もしくは労働組合的外皮を脱ぎ捨てなければならない。それは何を意味するか? それは、職業間の差別の克服が必要なだけではなく、農民ならびに都市のいくつかの職種の半プロレタリアートの信頼と同意を獲得するために偏見を克服し、労働者階級のなかにも存続しうるし、また存続しているある種のエゴイズムに打ち勝つことも、また必要であるということを意味する」(「グラムシ・コレクション」片桐薫編訳、以下同じ)

つまりグラムシは、労働者階級のヘゲモニーを重視しながら、それが狭い階級的(同業組合的)利害に閉じこもってはならないと言っているわけである。支配階級として統治能力を持つためには、自らの階級の利害だけではなく、ほかの階級の利害にも気を配り、全体の代表者としてふさわしい行動をするべきだというわけである。この場合にグラムシが念頭に置いている「同業組合的利害」とは、労働組合運動が陥りやすい、改良主義的な利益拡大への傾向を言うのであろう。そうした傾向は、同時代のイギリスをはじめ、多くの資本主語国において見られた。その傾向は根強いもので、21世紀の労働運動にも及んでいる。いまは労働組合は、労働者大衆の代表というよりは、いわゆる労働貴族の拠点となっており、かれらの利害を実現するための手段になり下がっていると言ってよい。場合によっては、自分たちの利害を貫くために、世論全体を敵にまわすこともいとわない。

ところで、その世論であるが、グラムシは「世論」が政治的ヘゲモニーと密接に結びついていることに気づいていた。世論を抑えたものが、その国の政治的・文化的ヘゲモニーを握る。そこで世論形成プロセスが問題となるわけだが、グラムシは特に、教育の果たす機能を重視している。支配的な階級は、教育を通じて、自らの利害を反映したイデオロギーを社会に根付かせる。その効果の強大なことは、日本の明治天皇制が、教育勅語を通じて子供たちを教化し、それが堅固なナショナリズムの確立を保証したことに現れている。

グラムシはここで、世論形成やイデオロギーをめぐる戦いにおいて知識人の果たす役割を重視している。知識人は、多少とも発達した社会にはだいたい存在するものである。かれらが世論やイデオロギーの形成に多大な役割を果たす。知識人はグラムシにとって、ある階級(特に支配階級)の自己意識を代弁した存在である。階級は知識人なしでは自らの意思を適切に表現できない。「批判的な自己意識は、歴史的・社会的には知識人のエリートの創造を意味する。すなわち大衆は、(広い意味で)自己を組織化することなしには自己を『識別』せず、『それ自体』独立したものにならないし、知識人なしには存在しない」。

ところでその知識人は、前近代社会においては、主として農民と職人からなる社会にあって、支配階級が国家を組織するための実働部隊として育成したものだった。ところが資本主義的工業社会は、別のタイプの知識人を大量に生み出した。すなわち技術の組織者であり、応用科学の専門家である。これらの新しい知識人たちが集団を形成し、企業の官僚的な経営を担うようになっている。かれらは半ば経営者であり、なかば労働者である。その両面的な性格のなかに、グラムシは将来の社会を動かしていく原動力を認めた。この知識人層が、労働者の立場からさまざまな問題に取り組むようになれば、社会主義への移行がすみやかになされる可能性が拡大する。そうグラムシは考えていたようである。



HOME政治的考察 グラムシ次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである