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実践の哲学とグラムシの人間観


「実践の哲学」という言葉をグラムシは、ほぼマルクス主義哲学と同義語として使っている。それには、獄中ノートへの官憲の検閲をほばかったからだとする見方もあるが、もっと本質的な理由は、レーニンを含めたマルクス主義思想の主流派と目されるものが、人間の認識を反映論によって説明し、その主体的な側面を軽視していることへの批判だと思われる。グラムシは人間の認識における主体的で実践的な側面を重視し、単なる客観主義ではなく、主観と客観とを深い相互関係において捉えようとした。そういう彼の基本的な態度が、マルクスの哲学を「実践の哲学」として位置づけなおすことにつながったといえよう。

マルクスの読み方は色々ある。ヘーゲル哲学の尻尾をつけた初期の疎外論をカギにして読むものや、円熟期の思想である物神化をカギにして読むものなどだ。グラムシの同時代においては、レーニンの「経験批判論」がマルクス主義哲学のバイブルのように扱われていたが、それは単純な反映論だった。反映論というのは、単純化して言えば、意識とは独立した物質的対象があって、それが意識に反映されたものが意識の主観的な内容だとするものだ。レーニンはこの立場に立って、「経験批判論」で、ただひとつのテーマ、すなわち物質的な対象は意識とは独立して客観的に存在するという主張を、長々と展開したわけである。グラムシはそうした客観主義に異を唱え、主観と客観との相互作用や、認識における実践的な契機を強く主張したのである。

人間における実践の契機については、マルクスの有名な「フォイエルバッハに関するテーゼ」から、グラムシは大きなヒントを得ている。このテーゼの第一の部分では、「これまでの唯物論~フォイエルバッハのもその数にいれて~の主要欠陥は、対象が、現実性が、ただ客体あるいは直感の形式のもとにのみ把握されていて、人間的・感性的な活動、実践としては把握されず、主体的には把握されずにいることである」とあり、また第二には、「人間の思惟によって対象的真理が得られるかどうかという問題は、なんら議論の問題ではなく、一つの実践的な問題である」とある。マルクスはこう言うことで、とりあえず人間の認識をめぐる実践の重要性を強調しているわけである。マルクスはさらに、認識を超えた人間の全体的なあり方にかかわる問題としても実践を重視する。テーゼの最後は、「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、だいじなことは、それを変革することである」(以上の引用、藤川覚訳)という有名な言葉で結ばれているが、この変革とは実践のもたらすものにほかならない。こうしたマルクスの主張をグラムシは改めて確認し、それを自分の主張の核心に据えたといえる。

グラムシの「実践の哲学」は、人間の認識活動の場と、人間と社会とのかかわりとの、二つの面において展開される。

まず、人間の認識における実践の契機について。反映論によれば、人間の意識の内容は外界の対象をそのままに模写したということになる。しかしこれは事実ではない、とグラムシは考える。人間は対象を無媒介に受け入れるわけではなく、ある一定の枠組みに当てはめるような形で受容する。グラムシはカントのカテゴリー論には何らの関心を示していないが、対象と人間との間に一定の媒介項を設定するところは共通している。その媒介項をカントは、人間に先天的(アプリオリ)に備わった能力だと考えたわけだが、グラムシはそれを人間同士の社会的な関係から生まれた規範のようなものだと考える。人間はその規範にもとづいて対象を認識する。だから人間の認識作用は、客観的的な対象と主観的な精神とが、人間の社会的に成立した規範を媒介項を通じて結びついたものだということになる。この場合、そうした規範の成立に人間の実践が深くかかわる。規範は社会的な産物だと言ったが、それは人間の実践を介して、人間を結びつける紐帯として成立するのである。

だから、グラムシは、人間の認識作用を一人の人間の個人的な営為とは捉えずに、個人と社会との共同作業と捉える。その共同作業を推進するのは、人間個々の実践なのである。ということは、人間は自分の存在の条件を自分自身で作り出しているということを意味する。人間は受動的に生きているばかりの存在ではなく、自分自身を作り出すような存在なのである。そこにグラムシが「実践」という言葉に込めた深い意味がある。

人間と社会とのかかわりについては、人間の認識作用を論じた上の部分で、すでにその一部に触れてしまったが、ここであらためて取り上げたい。人間性を固定したものと捉える見方は、すべての人間に一律に通用するような思考と行動の様式を設定したがるものだが、そんなものは存在しないとグラムシは言う。人間は歴史的・社会的な存在として、歴史に大きく規定されている。要するに人間は歴史の産物なのである。したがって歴史が異なれば、人間性も異なったあり方をとる。人間は社会的な存在として社会からたえず働きかけられていると同時に、社会に向かって働きかけている。人間は社会を作り直すことができる。そのことを通じて、人間自身を作り替えていく。そうグラムシは考えるのである。

そうした問題意識をグラムシは、「人間とはなにか」と問いかけることで表す。グラムシは言うのだ、「人間とはなにかという問いを立てることによってわたしが問おうとしているのは、人間は何になりうるかということである・・・人間は自分の運命を支配できるのか、『自分をつくる』ことができるのか、自分の生活を創造することができるのか、ということなのだ・・・わたしたちはほんとうに、『自分自身の製作者』、自分の生活、自分の運命の制作者であるのかどうか、また、どのような限界内でそうであるのかということである」(「現代の君主」上村忠男訳)。この問いにグラムシはイエスと答える。人間は本来実践的なものであり、そうした実践が、自分自身を創造するように働く、と考えるのである。

その場合に、人間の実践を制約する(限界づける)ものとして、社会の下部構造としての経済的な領域の問題と、上部構造としてのイデオロギー的な領域の問題が横たわる。全体としての人間社会を決定的に限界づけているのは下部構造のほうだが、個人にとって大きな制約となるのは上部構造としてのイデオロギーだ。この両者の関係をグラムシは、「カタルシス」の概念を用いて説明している。かならずしもわかりやすい概念ではないが、だいたい次のように受け取ることができる。

まず、グラムシ自身による「カタルシス」の定義は次のようである。「たんなる経済的(または利己的・情熱的)要素から倫理的ー政治的要素へ移行すること、すなわち、人間の意識において構造を上部構造にまで仕上げることを表すのに、『カタルシス』という用語を使用することができる。このことはまた、『客観的なものから主観的なものへ』、および『必然から自由へ』の移行を意味している」(「グラムシ・コレクション」片桐薫編訳)。この定義の意味するところは、人間は全体としての人間の一員としては、経済的な下部構造に制約されるが、一人の人間としては、それを超えて、精神的なものへと高まることができるということであろう。人間は精神的な存在として、社会に対して能動的に働きかけ、そのことを通じて社会を変革するとともに、自分自身を変革する。そういうことが成立するのは、人間が本来社会的な存在だからだ。そんな人間をグラムシは、「社会的諸関係の総体」と呼んでいる。そんな諸関係の中でも精神的な領域が人間らしさを実現する決定的な要素である。「カタルシス」とは、人間が物質的な制約を乗り越えて精神的な存在として自分を意識したときに生じる状態を表しているわけである。



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