知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




J・ジョル「グラムシ」


アントニオ・グラムシは、第二次大戦後の西欧で社会主義運動が高まりを見せた時期に、ソ連型の社会主義とは異なった、西欧型社会主義の魅力的なモデルを提示したものとして、非常に人気を集めたものだ。日本でもグラムシの研究は盛んだった。だが、今日、一部の熱心なファンを除き、グラムシを研究しようとする動きはしぼんでしまった。それには、ソ連の崩壊をはじめ、既存の社会主義体制が有効性を失ったことが働いている。そんな趨勢の中で、グラムシを研究しようにも、なかなかよい手がかりが見つからず、研究予備軍は、グラムシの著作に直接あたりながら、手探りで研究を進めていかざるをえない状況にある。そんな中で、イギリスの歴史学者J・ジョルが1976年に刊行した「グラムシ」は、いまだグラムシ研究の入門書的役割を果たしている。

ジョル自身はイギリスの歴史学者であり、また、社会主義者ではないのであるが、そのかれがグラムシに強い関心を示したのは、社会主義への共感を通じてではなく、純粋に学問的な立場からのようである。しかしかれは、歴史学者として、社会主義運動が生まれてきた歴史的な背景を十分わかっており、ある種の社会主義は実現する可能性が非常に高いと考えていたようである。というのも、イギリスでは、労働党の政策を通じて、労働者の保護、手厚い福祉、産業の国有化などが進み、伝統的な意味での自由主義的資本主義から社会主義への転換が進んでいたからであり、そういう傾向は逆戻りできないものと受け止められていた。ジョルはそこに、ソ連とは異なった西欧型の社会主義への動きを認め、そうしたタイプの社会主義の先駆者としてグラムシを高く評価したのではないか。

こんなわけで、ジョル自身は、ソ連型の社会主義には違和感を持つ一方、それとは異なる、いわば西欧型・先進資本主義国型社会主義の可能性は十分認めていたといえる。グラムシはジョルにとって、そうした新しい社会主義モデルを提示した思想家して、意味をもつ存在だったようである。

だから、ジョルがグラムシを論じるときは、ソ連型・スターリン型社会主義との対立関係においてグラムシを見るという立場をとることになる。ジョルが、ソ連型社会主義の特徴と考えるのは、経済至上主義であり、革命の歴史的必然論であり、人間の精神的な面を物質に還元する極端な物質主義である。それに対してグラムシは、いわゆる下部構造(経済)と上部構造(文化・政治)との関係を一方的なものと見ずに相互に干渉しあうものと見、したがって文化・思想・政治といったものの能動的な側面を強調した。また、革命は期が熟すれば自動的に起こるようなものではなく、新たな階級がその政党を通じて意図的に起すものだと考えた。更に、ブハーリン流の精神軽視主義を徹底的に批判して、歴史における精神の役割に正当な位置を認めた。単純化して言うと、ソ連型社会主義の物質一元論的な傾向を批判し、人間の精神的な側面を正当に評価したということになる。

こう評価することでジョルは、グラムシをマルクスの嫡子であるとともに、それを一歩進めたというふうに位置づける。マルクスの嫡子という意味は、改良主義的な社会民主主義ではなく、体制の抜本的な変革をめざす共産主義者としてグラムシを位置づけるということである。一方、それを一歩前に進めたという意味は、マルクスの革命論が歴史必然主義的な色合いを濃くもっていることに対して、人間の精神の働きを積極的に打ち出したということである。マルクスの革命論は、生産力の発展によって、なかば自動的に起こるというニュアンスが強く、したがって具体的な戦術論を軽視する傾向が強かった。それに対してグラムシは、革命は自動的に起こるわけではなく、ある階級つまりプロレタリアートとその代表である政党=共産党が意図的に働きかけることによってもたらされると考えた。だからグラムシの共産主義革命論は、マルクスに比較して一層人間的な色彩を感じさせる、とジョルは受け取るのである。

グラムシは、36歳の時に投獄され、46歳で死ぬまで監獄の中にいたので、同時代の実践的な動きや思想の動向について、密接なかかわりを持つことが出来ず、人生の大事な時期を孤立の中で暮らした。そんなかれにとって、投獄前のトリノにおける工場評議会での体験や共産党指導者としての経験とともに、新たな読書が、思索のための糧となった。その思索は、「獄中ノート」三十二冊や「獄中からの手紙」という形で残された。それらが、同時代のイタリアの現実政治や世界の共産主義運動に実際の影響を及ぼしたということはなかった。ただ、第二次大戦後、世界じゅうで社会主義運動が高まりを見せると、グラムシの思想は社会主義の一つのモデルを提示したものとして注目を集めた。戦後の社会主義運動は、共産党と社会民主主義政党によって担われたわけだが、グラムシの思想は、共産主義者を超えて、社会民主主義者にも影響を与えた。精神的原理を重んじるグラムシの立場が、社会民主主義者にも受け入れられやすかったためであろう。

社会民主主義的な社会主義論を代表するのは、シュンペーターである。シュンペーターはグラムシとは何らの交流がなく、グラムシもシュンペーターの存在を知らなかったようだ。シュンペーターの理論の特徴は、資本主義は社会主義へ転換する必然的な傾向を内在させているとするものだが、その転換は、プロレタリアートによる革命ではなく、資本主義内部の官僚的な経営層によってなし崩しに行われると考えた。その場合に、いわゆる知識人が強い役割を果たすと考える。グラムシにも知識人の役割を重んじる傾向があって、その点ではシュンペーターに通じるところがある。そのシュンペーターは、社会民主主義の代表者と考えられるので、グラムシと社会民主主義とは、知識人の重視を通じてつながりあっていると見ることができる。しかし、それはあくまでも、想像上の比較であって、実際にはグラムシとシュンペーターとが交わりあったという記録はない。

ジョルのこの本は、グラムシの入門書という体裁であり、グラムシの生涯を紹介する傍ら、かれの思想のエッセンスに軽く触れるだけにとどまっている。だから、グラムシの思想の概要が、この本一冊で理解できるわけでもない。グラムシがどんな人間であったか、そのイメージのとっかかりを与えてくれるような本である。



HOME政治的考察 グラムシ次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである