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スラヴォイ・ジジェク「ポストモダンの共産主義」


スラヴォイ・ジジェクは、21世紀の今時、共産主義の実現を声高に主張する珍しい人間である。「ポストモダンの共産主義」と題する書物は、そんなかれにとっての「コミュニズム宣言」ともいうべきものだ。ポストモダンという言葉を冠したのは、21世紀にも共産主義は有効だと言いたいからだろう。かれにとってポストモダンとは、21世紀をさしているようだから。

この本の構成は、資本主義の批判と共産主義のすすめからなっている。資本主義の批判のほうは、すでに言い古されたことが大部分で、あまり新味はない。ひとつ眼を引いたのは、資本主義がアンチ・セミチズムをけしかけるという指摘だ。小生などは、ユダヤ人にとっては資本主義こそが、民族として生きる上での最適条件だと考えていたので、ジジェクのこうした指摘は意外だった。ジジェクは、資本主義の矛盾が激化するたびに、そのはけ口としてアンチセミチズムが利用されてきたという。かれはアンチセミチズムをファシズムの中核と見ているので、それを助長するようなあらゆる動きを許さない。

そう言われると、ジジェクはユダヤ人の血筋をひいているのではないかと思われるのだが、ネット情報等にあたっても、かれがユダヤ系だという記事は見当たらなかった。

もう一つ、資本主義の社会主義化傾向についての見方。この見方はマルクスがすでに指摘していたものだ。それを踏まえてシュンペーターは、資本主義には社会主義へと向かう傾向が必然的なものして内在していると主張した。そうした見方は、社会民主主義者を中心にかなりいきわたっている。ところがジジェクは、そうした社会主義化への傾向を、資本主義の否定ではなく、その延命をもたらすものとして見ている。かれによれば、社会主義とは資本主義の高度な段階ということになり、社会主義を共産主義の前段階と見るのはまったく的を得ていないという。社会主義は、資本主義の延命策であり、共産主義の否定だというのだ。

社会主義化のほかにも、資本主義はさまざまな価値を己の体制に取り込んでいる、という。その時代的な転機としてジジェクは、1968年の、世界中に吹き荒れた民主化運動をあげる。その際に若者たちがあげた様々なスローガン、性の自由とかエコロジーとか、異議申し立ての権利とか、そういうさまざまな新しい価値観を、資本主義は、排除・抑圧するのではなく、おのれの体制の一要素として取り込み、それの無害化に成功した。資本主義は寛容さを表向きのスローガンにしており、深刻な脅威とならないかぎり、どんな批判も率直に受け入れ、場合によってはそれを体制内に取り込む能力をもっている。批判は物理的な脅威にならないかぎり、無力で他愛ないものとして肯定されるのだ。

こうした、社会における批判的な要素を体制が包摂するプロセスを、ジジェクはフーコーの権力理論を適用して器用に説明している。フーコーの議論にはイデオロギー的な偏りはあまり見られないが、体制の存続の秘密を説明できるものとして利用価値があると見たのだろう。要するにジジェクは、資本主義のしぶとさに脱帽しているのであって、グラムシやシュンペーターのように、その脆弱性を過大評価してはいない。

このようにジジェクは、資本主義の柔軟性を高く評価するので、そう簡単には破綻しないと見ている。それでもやはり、共産主義への希望を捨てない。共産主義こそが人類にとって唯一の明るい未来のイメージをもたらしてくれるものなのだ。

では、その共産主義は、どのようにして実現されるのか。共産主義を論じるにあたっては、そのシステムの概要とそれを実現する主体を明らかにすることが必要である。ところが、共産主義システムの概要的なイメージをジジェクは積極的には提示しない。せいぜい国家が消滅し、無政府の状況下で、人々が自由な結合をする、といったような漠然としたイメージだけである。その点では、マルクスの提示したものから一歩も踏み出していない。それでは実現も何もないではないか、という批判が起るのは無理もない。人はイメージを描けないものを、実現することはできないからだ。

実現の主体については、もっと悲観的である。マルクスやグラムシは、プロレタリアートの力を信じていたが、ジジェクは全く信じていない。それどころか、マルクスの想定したような意味でのプロレタリアートはすでに存在しないと言っている。いま、資本家とその随伴者(経営者を含めての)以外に存在しているのは、知的な職業に従事するもの、伝統的な労働者にほぼ該当するもの、それ以外のどうでもよい人々、つまりシステムから排除された人々からなる。この第三のカテゴリーの人々が重要な役割を果たす可能性を秘めているとジジェクは考える。知的な職業の人々は自分を労働者とは思っておらず、したがって労働の解放をめざす革命という概念とは全く無縁である。伝統的な労働者層は、いまでは労働組合に組織されているが、その労働組合こそ、現状の最大の受益者として、体制擁護者として振舞っている。真の意味で体制を批判し、それの解体を求める動機を持つのは、第三のカテゴリーの人々、つまり体制から排除された人々だというのがジジェクの基本的な考えである。

そういう人々をマルクスは、ルンペン・プロレタリアートといって軽蔑したものだが、ジジェクはかれらこそ人類の未来を背負っていると考えるわけである。革命主体に関する見方の、それこそ革命的転換と言うべきであろう。

ところで知的な職業層については、ジジェクはその意義を非常に高く見ている。マルクスの時代にも知的労働に従事する労働者層は一定程度いたものだが、それは経営者の機能を代理する特別な立場の人々だった。だからマルクスはそれを例外的なものとして扱った。ところが21世紀の今日では、知的な職業層が被雇用者の大きな部分を占めるに至っている。かれらは自分を労働者とは思っておらず、どちらかといえば、中小企業主のような意識を持っている。だから保守的な態度をとりがちである。かれらに革命への情熱を期待することは筋違いだ。

こういう職業層を生み出したのは、大企業における官僚組織の拡大とか、技術革新にともなう専門家の増大といった傾向である。それらの変化が、労働者層の構造的な変化とか企業行動の劇的な変化をもたらしている。いまや企業行動とか労働問題とかを、マルクスと同じ概念で説明することはできない。たとえば、マイクロソフトのようなグローバルな大企業は、マルクスの概念では説明できないという。マイクロソフトの創始者ビル・ゲイツが巨額の富を得ているのは、単に労働者から剰余価値を絞りとっているからではない。独得の企業戦略の成功がそれにふさわしい報酬をもたらす、というのである。ジジェクはそうした報酬を、財の希少価値によるものだとして、マルクスの労働価値説に異をとなえるのであるが、それは短絡的な見方というべきである。ビル・ゲイツの場合にも、その並外れた報酬は市場の独占の賜物なのであり、その点では、マルクスの分析の範囲内におさまる問題である。

ともあれジジェクは、21世紀の今日においてなお共産主義を称える珍しい人物なのであるが、その具体的なイメージたるや曖昧模糊として、その実現主体にいたっては、マルクスのいうルンペンプロレタリアートに過剰な期待をかけていると言わざるをえない。それでは、普通の人々から共産主義への同意をとりつけることはむつかしかろう。

なお、これは余談だが、ジジェクはグラムシに拒絶反応を示している。グラムシは共産主義者だったが、赦せないところがあると思ったようだ。それはグラムシのアンチセミチズムに原因があるらしい。グラムシは、ユダヤ人を資本主義の権化と考えており、資本主義の悪徳をユダヤ人と結びつける傾向があった。かれの口癖に「きたならしいユダヤ人」というのがあるが、その言葉は資本主義の汚らしさをユダや人になぞらえているのである。そんなグラムシのアンチセミチズムがジジェクには我慢ならなかったようだ。



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