知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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人間の条件:アーレントの政治思想


「人間の条件」という日本語は、人間が人間であるために必要な前提条件といった意味合いに聞こえるが、アーレントはこの言葉を、かならずしもそういう意味合いで使っているのではないようだ。この言葉の英語の原文は Human Condition であり、文字通り訳せば「人間的な条件」ということになる。人間には生き物として動物と共通の側面もあるが、人間特有の生き方というものもある。そうした人間の生き方を人間らしくさせているもの、それをアーレントは「Human Condition(人間の条件)」といっているようである。

では、人間らしい生き方とはなにか。それを考える前にアーレントは、人間の生き方をとりあえず、「活動的生活」と「観想的生活」に区分し、当面は「活動的生活」に焦点を当てて、人間らしい生き方についての考察を行いたいとしている。彼女によれば、人間の活動的生活を支えている活動力は、労働と仕事と(狭義の)活動とに区分され、そのそれぞれについて、人間的な条件=人間の条件がある。労働の人間的な条件は人間の生命そのものであり、仕事の人間的条件は人間が生きている物的な環境世界、つまり世界性であり、(狭義の)活動の人間的条件は「地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく、多数の人間であるという事実」、つまり多数性のことである。これら三つの条件は、「人間存在の最も一般的な条件である生と死、出生と可死性に結びついている」(アーレント「人間の条件」志水速雄訳、以下同じ)が、それを超えて、人間を人間らしくさせている条件なのである。

この三つの人間的条件のうち労働をめぐるそれは、人間の生命そのものを目的にしていることにおいて、最も基本的なものであり、その意味では動物と共通する低次のものということもできる。仕事のそれは、物的な環境世界の形成にかかわることにおいて、「工作人」としての人間の本質をなしているということができる。これらに対して(狭義の)活動をめぐるそれは、人間が一人だけで存在しているのではなく、多数の人間からなる社会を形成しており、そのような社会の一員として存在することに、人間の最も人間らしい意義があるとするとする点で、もっとも高度な条件だと言うことができる。アーレント自身は、この三つの条件は、人間に固有な条件として並立しているのであり、それら相互の間に優劣はないといっているが、しかし、労働を低次のものとし、(狭義の)活動を高度のものと考えているということが行間から伝わってくるのである。

アーレントのいう活動とは、言論を中心にしたものである。それゆえ、労働や仕事とは異なって精神的なものである。言論は、公的な領域である政治の舞台において展開されるのが典型的な姿である。そのような姿をアーレントは、ギリシャのポリスにおける政治的な活動をモデルにして展開した。ギリシャのポリスにおいては、労働は奴隷たちが従事すべき責め苦であると認識され、労働から解放された市民が公的な領域を舞台にして展開する政治的な言論活動こそが、自由な市民に相応しい行為だとされた。仕事は、労働よりもましな活動ではあるが、物を生み出すという点で、精神的な活動たる言動に比べれば劣るものだとされた。

このような、アーレントによる人間的な活動の分類やら、それら相互の関係をめぐる議論はかなり特殊なものである。アーレントが何故、このような議論を展開するにいたったかについては、彼女が生きた同時代への、厳しい視線があったと考えられる。彼女は、ナチスやスターリンによる全体主義が、人間の尊厳を根底から踏みにじったという事態に直面して、何故そのようなおぞましいことが可能になったかについて、深く自問せざるを得なかった。彼女の人間の条件についての省察は、そのひとつの回答だったのである。

ナチスやスターリンの行ったことは、人間を一人一人のかけがいのない存在として捉えるのではなく、人間をただの数字に還元することだった。人間は彼らにとっての敵か味方かという単純な基準に従って分類され、敵に分類された個人は、一人の個性ある人間としてではなく、殺すべき何万人かの人間たちの一人に解消された。そのように解消された人間たちは、ベルトコンベアーによって処理される製品のように、きわめて効率的に処理されて、死体にされたのである。

このようなおぞましい事態が起こったのは、人間の多数性が否定された結果だとアーレントは考え、いまこそ多数性の復権を図らねば、人間は限りなく堕落していくに違いない、と危惧したのだと思う。そこでアーレントは、人間の本来のあるべき姿を改めて提示し、現代社会の悪をそれからの堕落の結果として位置づけ、堕落から立ち上がるためには、人間本来の姿である多数性を復権させる以外にない、と考えたのであろう。

そこで、アーレントがなぜ多数性の概念にたどりついたかが問題になる。アーレントはこの概念をギリシャのポリスの分析から得たのであるが、なぜギリシャが、現代世界の対抗軸となったか、そこが問題になる。

アーレント自身露骨に言っているわけではないが、彼女が、全体主義に象徴される現代文明の堕落について、その大きな要因をキリスト教文化に求めていたことはほぼ間違いないだろうと思われる。それは、彼女がことあるごとにニーチェを引き合いに出すことからも推測される。ニーチェは、キリスト教文化を俗物たちによる奴隷道徳だと断定したわけだが、そのようなキリスト教文化に対する強い嫌悪感を、アーレントも共有していたのではないか。彼女の同胞であるユダヤ人たちを、なんら良心のやましさをも感じず、ビジネスのように淡々と殺した人々の心性に、このキリスト教道徳の影を感じたのではないか。

そこで彼女にとっては、キリスト教文化に代わる対抗軸を提示することが課題となったのだと思われる。彼女の本音は、ユダヤ的なものにそれを求めたいということだったと思う。しかし、それを持ち出しては、西欧社会に受け入れられないということを彼女はよく理解していた。そこで次善のものとして、ギリシャのポリス文化を持ち出したのではないか。

ギリシャ人にとっては、人間の多数性を前提にした自由な政治的言論活動が、人間にとってもっとも貴い活動であった。それに比べれば、労働は奴隷が従事すべきいやしい行為であり、その束縛から逃れて初めて、人間は自由な存在になれる。ところが現代社会では、この順位が逆転して、労働こそが最も貴い行為とされ、言論は無駄なおしゃべりに貶められてしまった。その背景にキリスト教の労働を尊ぶ文化が働いていたことは間違いない。こうした文化が、自由な存在としての人間の多数性を軽視し、労働とその反面である消費とがすべてであるかのような風潮を生み出してしまった。それが現代の大衆社会の本質であり、全体主義はこの大衆社会を揺り籠として育ってきたのだ、というのがアーレントの基本的な認識だったのだと思われる。

こんなわけで、アーレントの「人間の条件」に関する議論は、時代を超越した抽象的なものではなくて、同時代に対する鋭い視線から生じてきたのだと考えられる。たしかに、同時代の堕落を鋭く分析し、その克服を図るためには、同時代のイデオロギーにかわる別の対抗軸が必要になる。アーレントはそれを、ギリシャのポリスの政治的文化に求めたわけだが、その結果かなり特異な主張に繋がったことは否めない。というのも、アーレントの労働をめぐる議論は、奴隷の存在を当然のことのようにみなしているところがあったりして、現代人の目からは、受け入れがたいところを多く含んでいるからである。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2014
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