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矢野久美子「ハンナ・アーレント」を読む


ハンナ・アーレントは、早い時期から日本に紹介され、「全体主義の起源」を始めとした主要著作もほとんど翻訳されてきたが、そのわりには、いまひとつ評価が芳しくなかった。彼女は日本では、保守的な思想家として受け取られ、広範な読者を獲得することがなかったからだろう。ところが、最近になって、日本でも幅広い層に読まれるようになってきた。

かく言う筆者も、「人間の条件」などの彼女の著作を、本棚の一隅に積んではきたが、あまり熱心な読者だったとはいえない。熱心に読むようになったのは比較的最近のことである。そこで、アーレントの評伝のようなものがないかと探し始めたところ、矢野久美子著「ハンナ・アーレント」という本に出会った。一読して、なかなか参考になった。アーレントの生涯と思想の概要がコンパクトにまとめられている。

ハンナ・アーレントは、ユダヤ人としてドイツに生まれ、自分自身ナチスの迫害から逃れ続ける一方、ユダヤ人の同胞がナチスによって大量虐殺されるさまを見た。彼女の思想の根源には、そうしたつらい体験があったのだったが、この本は、アーレントのそんな側面に焦点を当てることで、彼女の生涯と思想とをわかりやすく浮かび上がらせることに成功している。

この本は、アーレントが自分自身をどのように認識していたかについて、繰り返し言及している。アーレントは、自分自身をユダヤ人として認識し、他人から「あなたはどのような人か」と聞かれたときにも、「わたしはユダヤ人です」と答え続けたほどだった。そのような自分自身への徹底したこだわりが、彼女の一生を貫いているということが、この本からはよくわかる。

ユダヤ人であることは、西欧社会にとっては特別な意味を持たされた事態であったわけだが、アーレントの時代にあっては、ことのほかそうであった。なぜなら、ユダヤ人であるというただそのことだけで、まったく何の理由もなく殺された人が、何百万人もいたのだ。ユダヤ人であるアーレントには、それが耐えがたかった。彼女がものごとを徹底的に考えるようになったのは、理解しがたいものを少しでも理解しやすいように、耐え難いことをすこしでも耐えられるように、なるためだったといえる。彼女にとっては、考えることは生きることと同じことだったのだ。

そんなわけであるから、アーレントは、生活のうえでも、思想活動の上でも、ユダヤ人であることに徹底的にこだわった。彼女の研究活動の出発点である「全体主義の起源」は、そもそもなぜユダヤ人はかくも迫害されなければならなかったか、という疑問に向けられたものであった。全三巻からなるこの書物は、「反ユダヤ主義」、「帝国主義」、「全体主義」からなるが、どの章も、ユダヤ人迫害がどのようなメカニズムによって生じてきたか、という問題意識に貫かれている。その後に彼女が書いたどの著作も、政治思想を抽象的に論じているというよりも、きわめて現実的な問題意識に貫かれており、その問題意識の根源には、「反ユダヤ的」なものに対する問いかけがあった。そう問いかけることで、ユダヤ人であるアーレントは、人間とはなにか、という疑問にも迫ろうとしたのだということが、この本からはよく伝わってくる。

ユダヤ人であることや人間であることに対する彼女の姿勢がもっとも典型的に現れたものとして、この本はアイヒマン論争を詳しく紹介している。アーレントはエルサレムの法廷で催されたアイヒマンの裁判を傍聴し、その結果を印象記のかたちで発表したのだが、それに対してユダヤ人社会を中心にすさまじい反発が巻き起こり、アーレントはまったくの孤立状態に陥った。そして、かけがいのないユダヤ人の友人すべてを失ってしまった。理由は、アイヒマンを悪魔だとする世論の決め付けに反して、アイヒマンはどこにでもいるつまらない人間だといい、また、ナチスによるユダヤ人の迫害にはユダヤ人自身も加担していたというようなことを、書いたからだった。膨大な数のユダヤ人を殺したのは悪魔ではなくどこにでもいるつまらぬ人間だったといわれては、殺された人間も浮かばれないし、また、ユダヤ人自身が同胞の迫害に手を出したなどとは、殆どのユダヤ人にとってとても認められることではなかった。

ヴァルター・ベンヤミンを通じて知り合い、親しくしていたゲルショーム・ショーレムからも絶交を言い渡された。ショーレムは彼女に対して、「民族の娘」として「ユダヤ人への愛」が見られないといって非難した。これに対して彼女は、「自分は『民族の娘』ではなく自分自身以外の何者でもないと答え、さらには、自分が愛するのは友人だけなのであり、『何らかの民族あるいは集団を愛したことはない』と書いた」(本文から)

これは、生涯ユダヤ人としての自分にこだわったアーレントにしては、すこし矛盾しているとの印象を与える。その矛盾を解く鍵として、この本は、彼女のレッシング賞受賞演説の一節を引用している。

「わたしは『ユダヤ人』という言葉で、ユダヤ人の運命が人類の運命を代表するとか範例的であるといったような、何らかの特別な人間存在のあり方を念頭においていたのではありませんでした・・・『ユダヤ人』ということでわたしが意図したのは、歴史的な負荷あるいは特徴を持った実在ということではなく、政治の現在形を認識することにほかならなかったのです」

この言葉には、ユダヤ人でなければ体験できなかったようなことを自分は体験した、その体験には、政治の現在形が凝縮されていた、だからそれと向き合うことで、たんにユダヤ人についてのみならず、人間性一般に通じる問題についての考察へと導かれていった、との問題意識がこめられていそうである。そうであったとすれば、彼女の問題意識は、ユダヤ人であることへのこだわりから出て来ているのだといっても、たいした間違いではないことになる。

なお、アーレントの思想には、人間性に関する深い省察を感じさせるものも、もちろんある。たとえば、「人間の条件」の中で展開されている、人間性の本質をめぐる議論などである。この本は、そちらの方面には踏み込んでいない。




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