知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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瘦我慢の説:福沢諭吉の処世哲学


福沢諭吉の小篇「瘦我慢の説」は、勝海舟と榎本武揚の生きざまを痛烈に批判したものである。両者ともに幕臣として幕末に生き、それぞれの信念に従って行動したとはいえ、その行動に疑うべきものがあるのみならず、維新後新政府に身を屈して立身出世を貪ったのはまことに鼻持ちならぬ卑劣な輩である、というのである。

福沢の批判は特に勝に対して鋭い。勝は江戸城を無血開城することによって日本を内乱から救ったなどと云うものがあるが、それはとんでもない間違いだ。勝はただ腰抜けだっただけだ。勝敗の行方が分からぬうちから、こちらが負けると決め込んで、降参しただけだ。そんな輩は三河武士の本分にもとるというべきである。しからばその本分とは何か。それは瘦我慢である。瘦我慢とは、たとえ勝算あらずとも大義のために戦うことである。国家というものは、この大義あればこそ成り立つのである。「百千年の後に至るまでも一片の瘦我慢は立国の大本としてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし」

しかるに、勝はこの大義を捨てて目前の利害に従った。それは日本という国家百年の計を危うくする行為であった。「敵に向かって抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自ら家を解きたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといへども、数百千年養ひ得たる我日本武士の気風を損ふたるの不利は決して少々ならず、得を以て損を償ふに足らざるものといふべし」こんなことであるから徳川政権は、当時の外国人から次のように言われて、軽蔑されたのである。

「およそ生あるものはその死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、なほその足を張って抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、ただ一向に和を講じ哀を乞ふてやまずとは、古今世界中にその例を見ず」

ここで抵抗という言葉で出てくるように、福沢のいう瘦我慢が抵抗精神と深いつながりを持つことは十分に見て取れる。人民の抵抗精神は、一身自立の大前提であり、一身自立が一国独立の大前提だとすれば、抵抗精神の放棄は、一身自立一国独立を危うくするものである。福沢にはこうした思想的な背景があって、勝の腰抜けぶりを責めているのであって、やみくもに抵抗しろと言っているわけではない。

ともあれ、ことほどかように、福沢の勝を責める舌鋒は鋭い。福沢は維新前後の勝の行動を責めるだけではない。維新後の行動はもっとひどいと言って更に攻め続ける。

「独り怪しむべきは、氏が維新の朝に先の敵国の士人と並立って得々名利の地位に居るの一時なり」福沢はこういって、勝の無定見さを軽蔑する。そして、「東洋和漢の旧筆法に従えば、氏の如きは到底終りを全うすべき人にあらず」と、右翼の刺客のようなことをいう。勝の生き方がよほど腹に据えかねたものと見える。

榎本については、福沢は勝の場合ほど強い調子ではないが、やはり維新後の変節ぶりに焦点をあてて責めている。榎本が旧幕府の生き残りどもを率いて最後まで抵抗したのはまことにあっぱれであったが、その前半のあっぱれぶりも、維新後の変節によって台無しになってしまった。榎本は、維新後新政府に誘われて官につき、とんとん拍子に出世して大臣にまでなった。なったのはともかくとして、得意満面になっているのはけしからぬ。それでは函館で共に戦い死んでいったものに対して顔向ができないではないか、そう福沢はいって、榎本の如きは、生き残った身を死んだ者たちの菩提に捧げるべきだとして、次のようにいうのである。

「古今の習慣に従へば凡そこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔ふの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、ただその身を社会の暗所に隠してその生活を質素にし、一切万事控目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」しかるに、「旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕となり、愉快に世を渡りて、かつて怪しむことなきこそ古来未曽有の奇相なれ」

勝、榎本にたいして福沢がこうまで呵責がないのも、自分の生き方と比較して、彼らが余りに情けない輩だと思ったからだろう。

福沢はこの二人とは面識があった。勝は一緒に咸臨丸に乗ってアメリカに行った仲である。生死をともにした仲間だと言ってよい。榎本は旗本同士の誼があったらしく、函館の変の後始末のさい、福沢は榎本の助命嘆願に一役買っている。殺すには勿体ないと思ったのである。だが折角生かしてやったのに、榎本はその命を自分だけのために使って、彼と共に戦って死んでいった者のためには何もしなかった。それはもとより榎本の性格からして考えられないことでもなかったが、それにしてもひどすぎる、というわけであろう。

彼らに対して自分は、誰にも恥じない生き方をしている。福沢にはそんな自負があって、その自負が彼らへの呵責のない批判に向かわせたのであろう。実際福沢は明治新政府とは常に距離を置いて、独立独歩する一方、旧幕府の旧臣たちとは生涯仲良く付き合った。たとえば、咸臨丸に乗せてもらった木村摂津守とは、倒れて死ぬ寸前まで親しく話を交わしていた。木村は咸臨丸での福沢の上司であり、なおかつ年も上だが、福沢を尊敬して「先生」と呼んでいた。福沢も福沢で木村を「先生」と呼んでいた。互いに尊敬しあう気持がそうさせたのだろう。

福沢はこうした人の縁を大事にする人だった。一度交わって意気投合した人々とは生涯付き合い続けたのである。




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