知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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マイク・サンデルの共通善


マイク・サンデルは、ジョン・ロールズにおいて極限形態をとったと思われる自由主義的正義論に異議を唱え、共通善と言う伝統的な概念を改めて正義論に持ち込んだ。その際に彼が依拠したのは、アリストテレスの目的論的な見解である。アリストテレスの目的論的な正義論にあっては、個人の自由などということはそもそも問題にならない。個人というのは、共同体の一員としてしか存在しえないのであるから、正義とは、ロールズが言うように個人の選択の自由に根差すのではなく、共同体の一員としての望ましい在り方を示すということになる。正義とは、共同体全体の道徳的な目的と離れてあるものではないのだ。

アリストテレスのこういった見方が、近代の自由主義的な正義論にとって評判が悪かったわけは、共同体全体の道徳的な目的なるものを誰が決めるのか、はっきりしないところがあるし、また、何らかの経緯によってそうした道徳的な目的が設定されたとして、それが共同体に属するすべての人々によって受容される保証はない。必ずそれに反対する人もいるわけで、そうした人々にとっては、共同体の目的として設定された価値は、桎梏として映るだろう、という至極もっともな懸念が成り立つからだ。

それにもかかわらず、サンデルはそうした共通善の必要性を強調する。共通善を設定することで、自由主義的な議論では説明できないことが説明できるようになるからだというのである。

自由主義的な議論で説明できない問題として、サンデルはいくつかの例を挙げる。まず、国民は国家の歴史上の過ちについて謝罪すべきかどうかという問題。謝罪は当然責任と結びついているが、自由主義的議論では、責任というものは個人による自由な同意を前提としている。同意したこともないものに責任を取る必要はないし、まして謝罪する必要もない、だから前世代の犯した罪に対して後の世代の人々が責任を取って謝罪する必要はないのだ、ということになる。しかし、果してそれでよいのか。

次に、妊娠中絶と幹細胞をめぐる問題。自由主義者的な議論では、妊娠中絶は母親の選択の自由の問題ということになる。これに対して反対論者は、胎児といえども人間なのであり、それを中絶してしまうのは殺人だといって批判する。この批判に対してリベラルな人々は正面から答える必要がある。その場合には、胎児は人間ではないと言わない限り、妊娠中絶が本当に正当な行いだとは言えないに違いない。幹細胞をめぐる問題についても同様のことが言える。幹細胞を使った実験に反対する人は、肺細胞といえどもすでに人間として生き始めている、それを実験の都合で損なうことは殺人行為だと批判する。この批判に対しても、リベラルな人々は正面から答える必要がある。

どのケースにおいても、問題を抽象的に扱うことはできない。抽象的なレベルでは、国家が過去に犯した犯罪を後の世代が責任をとるべきかどうかについて明確な基準は示せないし、ましてや胎児や胚細胞が人間と見なされるのかどうかも決定できない。それを決定できるのは、共同体の成員による道徳的な判断だけだ。無論、すべての人々がその判断を共有することはないかもしれない。だからといって、道徳的な基準が不要だという結論にはならない。

同性婚の問題にしても、抽象的な自立と選択の自由をもとにしては、正当化できない。自立と選択の自由が基準となれば、結婚を二人に限定すべき理由はなくなる、一夫多妻や一妻多夫も認められるべきだということになる。だから同性婚が合理化されるためには、コミュニティによって名誉あるものとして承認される必要があるのであって、その点で、道徳的な基準の問題として取り上げる必要があるのだということになる。

要は、人間をどのように見るかの問題なのだ、とサンデルは言いたいようだ。ロールズらリベラルな人々の人間観は、人間を共同体や国家とは独立した自由な存在だと見る。しかし、現実の人間は、そんなものではない。彼は家族の一員であり、地域社会や会社のメンバーでもあり、また国民の一人として国家に帰属しているといった具合に、さまざまなレベルで共同体につながっている。その共同体というのは、歴史を背景にして独自の文化や慣習を持った存在である。そうしたものとしてそれは、一定の価値観のようなものを形成し、それを共同体の成員が共有しているという関係にある。そうした価値観を離れて正義を論じることは片手落ちだ、逆に言えば、そうした価値観を介在させない限りは、上記のような問題には解決の糸口がない、とサンデルは言いたいようである。

サンデルがこのように、正義論に共通善という概念を改めて持ち込んだことの背景にはどのような事情があったのか、興味深いところだ。おそらく、民主党内における政治的な傾向の変化が大きく働いているのだろうと思う。ロールズが提起した正義論は、ケネディに代表されるリベラルな政治思想に哲学的な基礎づけを与えることを隠れた目的にしていたわけで、その意味で米民主党の政治理念という色彩が強かったわけだが、その民主党の内部で、政治思想の一定の変動が見られた。簡単に言えばオバマの登場である。

オバマが、先行する世代の民主党指導者ともっとも異なる点は、国家や共同体を強調する点だといえる。オバマは国民に愛国心を持つように呼びかけるし、また道徳の重要性についても熱心に語る。このような姿勢はオバマ以前の民主党の大統領にはなかったものだ。だがこれを、オバマ一人のこととして見てはいけない。アメリカ社会全体に、そのような雰囲気が強まり、それをオバマも無視できなくなっていると見た方がよい。

こうした傾向は、アメリカ社会の保守化として捉えることができるのだろうか。もしそうだとしたら、オバマはアメリカ社会の保守的気分に聊か便乗しているということになる。サンデルはそうした事情を踏まえて、正義論に共同体重視の視点を持ち込んだのだと言えなくもない。

ところで、自由を金科玉条にする人々へのサンデルの批判には鋭いものがある。中でもリバタリアンと呼ばれる人たちへの批判は鋭い。彼らはアメリカの政治的保守主義を代表する人々だが、一方では経済分野での無制約の自由を主張し、それをもとに国家の役割を最小限にするよう主張しながら、他方では、政治や文化の分野における伝統的な価値観を強調する。伝統的な価値観は、コミュニティや国家を大事にしているものだ。だが、そうしたものに対しては、自由の極端な主張は破壊的に働くものだ。このわかりきったことを、リバタリアンたちは何故か見えない振りをしている、といってサンデルは厳しく批判するわけなのである。この批判は、日本において保守を標榜している人々にも、そのまま当てはまるのではないか。彼らも日本古来の伝統について声高くしゃべりちらしながら、その実、市場原理主義的な経済思想を盲信して、日本の伝統破壊に一役かっているというわけである。




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