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ジョン・ロールズの市民的不服従論


ジョン・ロールズは、立憲民主制のもとでも市民的不服従は正当化されると考えた。その理由として彼は、「正義にかなった憲法の下においてもなお、正義に反した法律が可決され正義に反した政策が実施されうる」(ロールズ「公正としての正義」所収論文"市民的不服従の正当化"平野仁彦訳)ということを挙げている。

ロールズのこの主張には、1960年代のアメリカの政治的・社会的情勢が大いに影を落としている。ベトナム反戦運動や公民権運動など、アメリカの政治や社会に対して正義を訴える運動が60年代に広範に巻き起こったのだが、その動きの本流が市民的不服従という形をとったこともあって、それを理論的に基礎づけようとする動機が生まれた。ロールズの市民的不服従論は、こうした流れの上に立った議論だったといえる。

市民的不服従をロールズは、「通常政府の政策ないし法律に一定の変化をもたらす意図をもってなされる、法に反した公共的非暴力的良心的な行為」(同上)と定義している。「法に反した」というのは、彼らが標的とする法律に反対しているということを意味し、「公共的」と言うのは、それが個人的・集団的な利益をめざすものではなくて、正義の実現を目指す道徳的な原理に基づくということを意味し、「非暴力的」というのは、政府の弾圧に対して、暴力以外の方法によって対抗するということを意味し、「良心的」というのは、それが人々の正義の感覚に訴えているということを意味している。

以上を言い換えれば、「市民的不服従は、それが市民社会と公益の考え方を規定する道徳的原理によって正当化される行為であるという意味において、政治的行為なのである」(同上)ということになる。

この市民的不服従は、無条件に正当化されるわけではないとロールズはいう。それが正当化されるためには、三つの条件を満たさねばならない。まず第一に、「多数者への通常の政治的訴えかけがすでに誠実になされ、しかもそれが拒否されたこと」、第二に、「市民的不服従は正義感覚に訴えかける政治的行為であるので、通常は、正義の重要かつ明白な違反に限定されるべきで」あること、第三に、他人を犠牲にして自己の利益を追求するものではないこと、以上三点である。

ロールズが実際に直面していた1960年代の市民的不服従の運動、たとえば公民権運動などは、一部に行き過ぎの動きがなかったわけではないが、概ね以上の条件を満たしていた、とロールズは考えたのであろう。それ故にこそ、これらの運動は実を結び、公民権の確立などの制度の改正へとつながって行ったわけである。

このように、ロールズの立論は、政治や社会の現実の動きに即しながら展開されているところに大きな特徴がある。それ故にこそ、アメリカのリベラリズムの潮流に対して、現実的な影響力を持ち得たのだと思う。

市民的不服従は、本元のアメリカにおいても、最近はあまり聞かなくなったが、世界に目を転ずれば、まだその動きを目撃することができる。例えば沖縄だ。沖縄はいま、米軍基地の問題を巡って、日本政府に対して抵抗運動を行っているが、その動きを見ると、市民的不服従の要件を備えていると見ることができる。上記の定義に照らしてみると、沖縄の基地をめぐる現行の法体系に反対・対立していることで「法に反した」ものであること、法の前の平等と言う法的・道徳的な原理に基づいている点で「公共的」であること、政府の強引な態度に対してデモなどの非暴力的方法によって抵抗している点で「非暴力的」であること、人々の正義感覚に訴えている点で「良心的」であること、などの要件を満たしている。

こうした沖縄の人々の抵抗運動は、果して正当化できるものなのかどうか。これも上記の三つの正当化要因に当てはめて検討してみよう。

まず、「多数者への通常の政治的訴えかけがすでに誠実になされ、しかもそれが拒否されたこと」に該当するかどうか。これについては多言を要しまい。沖縄の人々が、県内に集中している米軍基地の負担を緩和するよう長い間求めてきたことは周知の事実だ。その声に押された形で、一時は日本国の総理大臣が普天間基地の県外移転を口約束したほどだ。それが今の安倍政権になってからは、沖縄の人々の切実な声に耳を傾けようともしない。これでは沖縄の人々が抵抗運動に立ち上がるのは、無理もないことだ。

次に、「市民的不服従は正義感覚に訴えかける政治的行為であるので、通常は、正義の重要かつ明白な違反に限定されるべきで」あるという基準は満たしているか。正義とは、ロールズの定義によれば、二つの原理からなっている。その第一原理は、平等な自由ということだ。これは、人々は、他人の自由を侵害しない限り自分の自由を追求できる平等の権利を持っている、ということを含意しているが、これを沖縄に当てはめて考えると、どういうことになるか。沖縄には、日本にある米軍基地(常用基地)のうち七割以上が集中している。狭い土地にそれだけの基地があるおかげで、沖縄の人々は深刻な被害に日々悩んでいる。これが、正義の理念からして、著しく逸脱した事態だということは、言うまでもない。ところが安倍政権は、これ以外の選択肢はないという理由で(これを理由と強弁すればの話だが)、この事態を放置したままでいる。したがって沖縄の人々が、自分たちの境遇を、「正義の重要かつ明白な違反」と捉えるのは無理もない。

第三に、他人を犠牲にして自己の利益を追求するものではないこと、と言う要件を満たしているか。沖縄の人々は、自分たちの基地負担の軽減を訴えてはいるが、それを、他の県の人々の負担に押しつけようとは主張していない。今のところはただ、普天間基地を辺野古に移転するのでは、問題の解決にはならない、といって、抵抗しているだけである。だから、沖縄の人々に向かって、お前の厄介者を俺に押し付けるな、という人がいたとしたら。その人は問題をすりかえているのである。沖縄の人々が言っているのは、普天間基地をなくせ、ということであって、それを他の県に移せと言っているわけではないからである。

ロールズは、市民的不服従の意義を認めながら、一方では、その運動が「単に多数者の過酷な報復を惹き起こす役にした立たないものであるならば、それは馬鹿げた行動であろう。そして多数者が正義感覚を欠いている場合とか、行動がほとんど時宜を得ないものであったり、正義感覚への訴えが効果あるよう工夫されていない場合、そうなる可能性がある」(同上)とも言っている。つまり、非民主的な政治体制にあっては、市民的な不服従は効果を持たない可能性が高いというわけである。

沖縄の場合にはどうか。今の安倍政権のやり方を見ていると、先の総選挙で示された民意を背景に、沖縄県知事が基地問題についての意見具申を政府に行おうとしても、首相はじめ政権側のメンバーは、ことごとくこれを無視することで、露骨な報復を行っている。先日は、日本に駐留している外国の軍隊に沖縄の人を逮捕・拘束させるのについて一役買ってまでいる。また、沖縄の人々の基地反対運動に対しては、代替案を出すように求めているが、これは沖縄の人ではなく、安倍政権の政府がなすべきことだろう。

これらは、ロールズの言うとおり、安倍政権に正義感覚が欠けていることの表れかもしれない。もしそうなら、沖縄の人々の抵抗の努力は、馬鹿げたことになる可能性が高い。しかし、もしそうなら、日本は立憲民主制の国ではなく、抑圧的な体制の国だということを、内外に向って示すようなものだといえる。安倍政権が、そうまでして沖縄に報復し続けるのかどうか、それは、安倍政権だけの問題ではないだろう。




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