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カリスマ的支配:ウェーバー「支配の社会学」


マックス・ウェーバーが正統的支配の三つの類型として提起した合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配は、いずれも純粋な理念型であるとしているものの、やはり特定の歴史的な背景と結びついているところがある。合法的支配は、官僚制において最も純粋な形で成立すると言っているとおり、近代的な組織や社会共同体において典型的に見られるものである。したがって歴史的にみれば、最も新しい類型の支配だともいえる。これに対して伝統的な支配は、近代以前の社会において見られたものだと、とりあえずは言うことができよう。

この二者に比べると、カリスマ的支配はやや位相を異にしている。それは歴史的には最も古い起源をもちながら、古代社会にとどまらず、歴史上のあらゆる時代の社会に現れたし、ウェーバーの生きていた20世紀においても、現れる可能性は十分にあると、ウェーバー自身も考えていたに違いない。実際、ウェーバーの死後間もなく、イタリアにはムッソリーニというカリスマが登場したし、ドイツにはヒトラーが現れたわけである。

その理由は、カリスマが特定の社会的基盤と結びついているのではなく、個人の特異な能力と深く結びついていることにある。特異な能力をもった個人はいつの時代にも現れうるわけだから、カリスマも、いつ現れてもおかしくないわけである。

そのカリスマ的支配についてウェーバーは次のように定義している。「カリスマ的支配は、支配者の人(ペルゾーン)と、この人(ペルゾーン)の持つ天与の資質(カリスマ)、とりわけ呪術的能力、啓示や英雄性、精神や弁舌の力、とに対する情緒的帰依によって成立する・・・最も純粋な型は、予言者、軍事的英雄、偉大なデマゴーグの支配である」(世良晃志郎訳、以下同じ)

カリスマとは異常な個人が備えた天与の資質なのであり、カリスマ的支配とは、その資質を持つ個人に人々が情緒的に帰依することによって成立する。したがって、「これらの資質が彼に記されている間だけ、すなわち、彼のカリスマが証しによって実証されている間だけ、服従が捧げられるのである」

この定義は、ムッソリーニの場合によくあてはまる。ムッソリーニが権力を掌握したのは、彼の異常な才能が膨大な数の帰依者を引き寄せ、その帰依者を動員することによって、暴力的に権力を追求したことの結果だった。人々がムッソリーニにカリスマを認めている間は、ムッソリーニの暴力的で非合理的な行動は大目に見られたのである。ところが、ムッソリーニが歴史の流れに対して弱気になったとたん、彼からはカリスマ性が消滅した。それ故それまでムッソリーニの帰依者だった人々がまず初めにムッソリーニを見限ったのである。その結果ムッソリーニは裸の王様となり、民衆によって殺されて、広場で逆さ吊りにされたわけである。

ウェーバーによれば、カリスマの概念を最初に提起したのはルドルフ・ゾームであった。ゾームは古キリスト教団について、カリスマをもった指導者が膨大な帰依者を組織して堅固な信仰共同体を形成する過程をあぶりだしたのであるが、それ以来この概念は、その重要性を認識されることなくしばしば用いられてきたとウェーバーはいう。そういったうえで、このカリスマと言う概念を支配の類型の一つのキー概念として一般化したのである。

ウェーバーはいう。「人間に対するカリスマ的支配は、あらゆる時代の預言者や武侯によって担われつつ、何世紀にもわたって続けられてきた。カリスマ的政治家~デマゴーグ~は、西洋の都市国家の産物である」

ウェーバーが言うような意味でのカリスマ的支配者は、東西の歴史上きわめて多くの数に上る。イエス・キリストやムハンメドなどの宗教的な預言者たち、チンギス・ハーンやナポレオンなどの軍事的英雄、そしてペリクレスやクレオンなどのデマゴーグが良い例である。

この中で、現代社会でも現れる可能性が高いのはデマゴーグである。ムッソリーニもヒトラーもデマゴーグとして出発した。しかしデマゴーグが即カリスマ的支配者になりうるわけではない。デマゴギーを通じて膨大な数の帰依者を集め、彼らの力を組織してそれを目に見える権力に高めなければならない。ムッソリーニもヒトラーもこの過程を成功裏に潜り抜けることができたために、偉大な独裁者になれたわけなのだ。

デマゴーグに似ているものにポピュリストがある。ポピュリストもデマゴーグと同じようなデマゴギーを用いる。しかし両者は基本的に異なったものである。デマゴーグは自分の野心を達成する手段としてデマを用い、それによって民衆を帰依させて、自分の権力のために組織する。したがって力のベクトルはあくまでもデマゴーグを中心にして成立している。デマゴーグは自分の作り上げたデマによって民衆の心をつかみ、それを梃にして自分の権力を確立するのである。

それに対してポピュリストには、ベクトルの出発点でありうるような自主的な力はない。ポピュリストが民衆の支持を獲得するのは、民衆の欲していることを代弁しているからに過ぎない。その場合には、民衆の間には不満が渦巻いているのが普通である。ポピュリストはそこに付け込み、民衆の不満がどのようにして生まれて来るのか、またそれはどのようにして解消されるのかをわかりやすくいってやることで、民衆の不満のはけ口に形を与えてやる。それは多くの場合、民衆にとっての特定の敵を打倒しようという呼びかけとなる。

したがって民衆にとって自分の欲していることが曖昧になると、つまり民衆が現状に対して不満を持たないと、ポピュリストにとって活躍の場はなくなる。また、ポピュリストは民衆の支持を獲得できた場合でも、それを梃にして独裁的な権力を獲得するまでにはいたらない。独裁者となるためには、たんなるポピュリストを超えた特別な能力が必要なのだ。

正真正銘のデマゴーグは、民衆の中に不満がなくても、無理にそれを作り上げるような、創造的な才能を持っている。デマゴーグはどんな場合にも、自主的に振る舞うことができるのだ。





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