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政治的なものの概念:カール・シュミットの友・敵理論


マキャヴェリ以来、近代西欧の政治理論は、政治を権力と関連付けて論じてきた。政治というものは、権力の獲得とか配分をめぐる現象であって、権力の動機を持たない政治的な行為というものはありえない。権力をめぐる戦いがあるところには、当然敵・味方の区別が生じるが、それは権力闘争に付随する現象であって、それ自体を独立したものとして概念規定しようとするのは行き過ぎである、とされてきた。ところがカール・シュミットは、政治とは友・敵(敵・味方)の区別が生じるところに始めて成立するものだとすることで、友・敵の区別こそが政治の本質であって、権力はそれに付随するものだとする。つまり、権力と友・敵区別の関係を、伝統的な政治理論とは180度異なった仕方で捉えるのである。権力をめぐる戦いが友・敵の区別を作るのではなく、友・敵の区別の生じるところに権力をめぐる戦いが生まれる、とするわけである。

シュミットはなぜ、権力ではなく友・敵の区別を政治の本質だとしたのか。もしも権力を政治の本質とするならば、政治と政治以外の領域との区別が曖昧になり、その結果政治を純粋な形で考えることができなくなる、そう考えたからである。権力を問題とすれば、必ずと言ってよいほど、権力の正統性だとか、権力行使の道徳的根拠とかが問題となる。しかし、政治というものは、正義とか道徳とは基本的に別の領域のものであって、それ自体で完結した現象と考えるべきである。友・敵の区別には、権力にまつわる非政治的な要素を排除して、それ自体で独立したものとして考えることができるという利点がある。それゆえ、政治を純粋な形で取り上げる際には、友・敵の区別こそが有効な手がかりとなる、そうシュミットは考えるのである。

シュミットは言う、「道徳的に悪であり、審美的に醜悪であり、経済的に害であるものが、だからといって敵である必要はない。道徳的に善であり、審美的に美であり、経済的に益であるものが、それだけで、特殊な語義における友、つまり政治的な意味での友とはならないのである・・・友・敵概念は、隠喩や象徴としてではなく、具体的・存在論的な意味において解釈するべきである」(「政治的なものの概念」田中浩、原田武雄訳)。こう言うことでシュミットは、政治的なものの概念を、道徳的・審美的。経済的等々のほかの領域から独立したそれ自体独特の概念としてとらえる。政治を政治に固有の言葉だけで語る、その言葉とは友・敵の区別を表す言葉なのである。

シュミットによれば、友・敵の区別を設定する主体が政治的主体ということになる。これには様々なものがなりうる。たとえば宗教団体とか階級といったものだ。しかし政治的主体の究極的な形は国家だ、国家こそが政治主体の最たるものであり、したがって政治的な現象は国家をめぐって典型的な形で発現する、こうシュミットは言って、以後政治的なものについての議論を、もっぱら国家を中心にして展開してゆく。

国家にとって友・敵の区別はどのような意義を持つか、それを研究することが政治学の課題だ、ということになる。主として問題となるのは、敵だ。国家にとっての敵とは何で、それはどのような政治的な意義を持っているのか、それを明らかにする必要がある。シュミットはこの敵を、国家の外と国家の内にそれぞれ求める。外の敵とは外敵としてのほかの国家であり、内の敵とは国家内で国家の転覆を図る反国家勢力ということになる。この場合、敵の概念に、存在論的な意義を超えた余分な要素、上述したような道徳的以下の要素が一切問題とならないのは言うまでもない。それらの敵とは単純な意味で、国家にとって物理的に殲滅すべき敵なのである。敵を殲滅するのに余計な理由はいらない。敵とは定義からして殲滅すべきものなのだ。

外敵との関係では戦争が、内敵との関係では内乱が問題となる。特に問題なのは戦争である。何故なら、外敵との戦争にあたっては、国家は国民に対して異常な要求をしなければならない。自分の命を国家にささげること、つまり死を賭して国家のために戦うこと、そのパラレルとして、敵国の人間を殺戮すること。こうした要求は、道徳的には根拠づけられない。それを正当化できるのは国家の主権である。国家は主権者として自分の国民に死ぬことを求め、相手の国民を殺戮するように求める。なぜ国家にそんなことができるのか。そうしなければ国民もろともに国家自体が死滅してしまうからだ、というのがその唯一の根拠となる。

このように、シュミットの政治理論は、国家を主権者とすることで、国家に政治的な万能を付与するところに特徴がある。それゆえシュミットは、国家の主権を制限しようとする議論、とりわけ自由主義的な議論に対して非常に批判的である。自由主義者たちは、国家を個人に対立させ、個人の自由を守るためと称して国家の主権を制約しようとするが、それは究極的には国家不要論につながる。国家不要論はアナーキズムに典型的に見られるが、これは国家が消滅することで自由な社会が実現するというような妄想を振りまいているだけである。なぜなら、国家が消滅するなどということはありえないからだ。それと同じような意味で政治的なものが消滅することもない。友・敵関係に集約される政治的な現象は、人類が存在する限り、無くなるはずがないからだ。人類というものは、定義上からして闘争を好むものなのであり、したがって政治的なものと無縁になることはない、そうシュミットは考えるのだ。

このようなわけだからシュミットは、国家の対立を超越した世界平和が実現する可能性などは頭から否定する。国家は永遠に無くならないし、戦争が無くなることもない。国家があるかぎり、政治的な主体として友・敵の区別を認定し、敵との間で戦争を繰り広げるのは自然の法則のようなものだ。したがって、国家の主権を放棄して、みずから平和国家たらんと宣言するのは馬鹿げたことだ。シュミットは言う、「個々の国民が、全世界に対して友好宣言をし、あるいはみずから進んで武装解除することによって、友・敵区別を除去できると考えることは誤りであろう。このような方法で、世界が非政治化し、純道徳性・純合法性・純経済性の状態に移行したりするものではない」(同上)

シュミットはまたこうも言う、「一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないし意思を失うことによって、政治的なものが、この世から消えうせるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消えうせるにすぎないのである」(同上)。かくも国家というものは、シュミットにとっては、人間の存在に不可欠な絶対的な前提となっているわけである。

シュミットのこうした考え方は、1920年代のヨーロッパの国際状況を色濃く反映したものだと思う。ドイツは敗戦国家として、戦勝国から過酷な条件を押し付けられていた。その条件はドイツ国民にとっては、生存にかかわるようなものであった。ドイツはいわばヨーロッパ全体の敵扱いされていたのである。そんな状況の中で、ドイツ国民がまともな民族として生き残る為には、ドイツの国家としての実力を高めていかねばならない。重要なのは、ドイツ国民が一国民として一体となることであり、そうした一体的な国民として、何が敵であり、なにが味方なのかを、冷静に見極め、敵を殲滅しなければならない。でなければドイツは永遠に二等国にとどまり、ドイツ国民は塗炭の苦しみを舐め続けることになるだろう。

このような問題意識に駆られてシュミットは、国家の主権の強調と国際平和の欺瞞性を告発することに情熱を傾けるようになったのではないか。




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