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カール・シュミットの議会主義批判


カール・シュミットが「現代議会主義の精神史的状況」のなかで主張したことは、一つには、民主主義と独裁とは対立するのではなく親密な関係にあること、もう一つには、民主主義と議会主義とは必然的な関係にはないこと、というより対立関係に陥りやすい傾向があること、この二つのことであった。民主主義と独裁との関係については、先稿でふれたので、ここでは民主主義と議会主義との関係についてのシュミットの議論を見ておきたい。

近代以降の政治思想においては、民主主義と議会主義とはワンセットとして捉えられてきた。民主主義は必然的に議会主義を要請し、議会主義は必然的に民主主義の舞台を提供するというわけである。一方、独裁が結びつくのは専制主義であり議会主義の否定であるとされた。これは、民主主義と独裁とを統治の主体の問題としてとらえ、議会主義を統治の方法として捉えるアリストテレス以来の伝統的な枠組みにしたがった考え方である。それによれば、多数が統治の主体となる民主主義が統治の方法として多数の議論の場である議会を利用するのは当然のことであり、専制君主が統治の主体となる独裁にあっては、統治者による専制が統治の方法として採用されるのは当たり前だ、という考え方にもとづいている。

こうした考え方によれば、民主主義と独裁とは互いに相容れない対立関係にあるということになる。一方は統治の主体が多数(理念的には全員)であり、他方は一人であるからだ。だがこれは形式的な見方であって、現実の歴史を反映していない、とシュミットは言う。現実の歴史が物語っているのは、民主主義が容易に独裁に転化するということであった。シュミットはその例として、フランス革命におけるジャコバンの独裁やロシア革命におけるボリシェヴィキの独裁をあげているわけであるが、そのほかにも、可能性としては、たとえば議院内閣制のもとで議会から出てきた執行機関が独裁化することもありうるとしている。

議員内閣制にあっては、「議会は国民の委員会であり、政府は議会の委員会であるとされる。こうなることによって、議会主義の思想は、本質的に民主主義的なものとみられる。しかしながら、それは、民主主義の思想との同時代性や関連性がどれだけあろうとも、本質的に民主主義的なものではないし、また、便宜性という実際的な観点に解消されてしまうものでもない。実際技術的な理由から国民にかわって国民の信託を得た人びとが決定するのならば、その国民の名において唯一人の信任をえた人が決定することもできる。この論拠は、民主主義的であることをやめることなしに、反議会主義的カエサル主義を正当化することになろう」(樋口陽一訳)

シュミットがこういうわけは、民主主義と議会主義とは違うカテゴリーの概念であって、両者の間には、慣例的な結びつきは指摘できるとはいえ、必然的な結びつきはないと考えているからである。しかもその慣例的な結びつきについても、かつてはかなり強固であったことはあるが、現代の政治的な状況においては、次第にその結びつきの緩さが指摘されるような事態が生じている。したがって現代においては、民主主義と議院内閣制、あるいは議会主義一般との結びつきをあまり強く主張する根拠が薄くなっている、とシュミットは言いたいようである。

だがこの結びつきの緩さは、そう簡単に生じているわけでもない。議会主義をそのまま放っておけば、そこからおのずから独裁が生まれてくるとまでは、シュミットは言わない。これは、民主主義を放っておけば、そこからおのずから独裁が生じてくると言いたげなところとは大いに異なっている。議会主義が独裁を生み出すのは、議会主義の本性にしたがった、いわば必然的な現象ではなく、議会主義の原則がゆるんだ結果として起る、つまり独裁は議会主義の否定の上に起る、ということはシュミットといえども認めざるをえないようである。

シュミットが議会主義を論じるときに前提としている枠組は、議会主義と民主主義との結びつきではなく、議会主義と自由主義の政治原則との結びつきである。シュミットは自由主義の政治原則を、「権力の多元性、立法権と執行権の内容上の対立、国家権力の全部が一点に集中してよいという思想の拒否」といった諸点に求めているが、「これらすべては、実は、民主主義的な同一性の観念に対する反対物である」と考える。シュミットにあっては、民主主義とはあくまでも、統治者と被統治者との同一性にあり、それゆえ権力の分散をはじめとする自由主義的政治原則とは相反するのだということになるわけである。

このような議論を通じてシュミットは、民主主義と議会主義の結びつきを切断しようとしているようにみえる。だがそのことでいったいどのような政治的な主張をしようというのか、そこのところは、この文章の中からは明確に読み取れない。民主主義と議会主義との結びつきは偶然的なものなのだから、その両者を強く結びつけて考えるのはよそうと言っているかといえば、そのようには聞こえてこないところもあり、逆に、両者の結びつきが偶然的であるからこそ、その結びつきを強化するように努めねばならない、という主張が伝わってくるわけでもない。

シュミットの面白いところは、議会主義の自由主義的な原則を述べるについて、議論の公開性とか、議会権限の立法への限定とか、三権分立の上に更に議会内部における権力の分立(二院制)とか、複数政党制とかといったものをもち出してくることである。これらの政治的原則はいずれも独裁を阻止する方向に働く。したがってこれらの政治原則を強化すれば、少なくとも独裁は生まれにくくなるわけである。ということは、民主主義から独裁が生まれるという政治的パラドックスを生じさせないために、議会主義の自由主義的な政治原則が大変効果をもたらすということになる。

だが、シュミットはその効果を積極的には評価していないようである。そこのところがシュミットのわかりにくさの、最大の要因となっている。




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