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カール・シュミット「政治的ロマン主義」


「政治的ロマン主義」は、カール・シュミットの始めての本格的な政治学論文である。これが書かれたのは1919年だが、その時点でロマン主義を取り上げたことに何か特別の事情があるのか、21世紀の日本の読者にとっては腑に落ちないところがある。しかもこの論文は、アダム・ミュラーとかフリードリッヒ・シュレーゲルとか、政治理論の上でも、またほかのいかなる精神史的な歴史においてもほとんど関心の対象とならないような人物について、延々と退屈極まる論及を行っている。そうした退屈な論及が、シュミットがこれを書いた1919年のドイツにおいては、ことさらに意義を持っていたかと言えば、どうもそうでもないらしい。にもかかわらずシュミットは、なぜこんな文章を書いたのか。

この論文は、21世紀の日本に生きる筆者のようなものにとっては、通読するのに大変な忍耐を要する。通読した後にほとんど何も残らないとあっては、何のためにこんなものを読んだのか、自問せざるをえない。それも多少の自嘲の気持を以てだ。

どうもシュミットは、ドイツ人には馬鹿者が多いということを言いたいためにこの論文を書いたのではないか、それが筆者の得たとりあえずの読後感だ。ドイツ人には馬鹿者が多いとシュミットが思った理由は、おそらくドイツが戦争に負けて酷い目にあったということにあるのだろう。シュミットがこの論文を書いた頃のドイツは、戦争に負けたおかげで国中がてんやわんやの大騒ぎに陥っていたばかりか、戦勝国から莫大な賠償金を課せられ、国の前途は真っ暗だった。そんな事態に陥ったのは、ドイツ人が馬鹿だったからだ。ドイツ人がもうすこし利口だったなら、こんな酷いことにはならなかった。そういう絶望的な気持ちがこみ上げてきて、ドイツ人仲間を罵倒したくなったのだろう。

ドイツ人はなぜ馬鹿になってしまったのか。その理由を解明することが、どうもこの論文の意図らしい。そこでシュミットは、ドイツ人を馬鹿にした元凶として政治的ロマン主義を持ち出すのだ。それ故この「政治的ロマン主義」という言葉は、シュミットにとっては、「ドイツ人の馬鹿さ加減」というのと同じ意味合いを持つわけである。

ロマン主義はなにも、ドイツだけに起きた現象ではない。イギリスにもフランスにも起きた。フランスの場合には、フランス革命の理念と結びついて、社会を進歩させる精神的な原動力ともなった。ところがドイツの場合だけは、どうしたわけかドイツ人を馬鹿にする原動力となった。どこでどのようにしてこうなってしまったのか、それを解明することがこの論文でのシュミットの意図なのだと思う。

ロマン主義の内実についてシュミットはあれこれと定義めいたことを述べているが、要するに空疎なおしゃべりにうつつをぬかす精神的な傾向というふうに捉えているようだ。ロマン主義のロマンとはもともとは小説を意味する言葉である。小説がどんなものでも盛り込める容れ物であるように、ロマン主義はどんなものでもおしゃべりの種にしてしまう。シュミットはそうした精神的な傾向を主観的オケーショナリズムと呼んでいるが、要するに世界を客観的に分析するのではなく、主観的に解釈するのである。

シュミットは、ロマン主義が、ブルジョワ社会が成立した18世紀以降に出現したことを踏まえて、ロマン主義の担い手をブルジョワだと捉えた。ブルジョワには、その階級的な制約からして、自由主義的な傾向が強い。その傾向が、自由な討論を尊重する精神的な傾向を生むわけだが、その傾向はイギリスやフランスでは自由を求めての革命や社会改造につながったのに対して、ドイツでは空疎なおしゃべりに現をぬかし、現状維持をよしとする態度を養った、というのがシュミットの見立てである。

ドイツ人が戦争に負けたのは、空疎なおしゃべりにうつつを抜かし、現実的で客観的な思考が出来なかったせいだ、そしてそれは政治的ロマン主義がドイツ人の精神を損なっていたことに原因がある、こうシュミットは考えたわけであろう。それゆえドイツ人の未来を明るいものにするためには、この政治的ロマン主義という病から解放されなければならない、というわけであろう。

ところで、シュミットがドイツ人の政治的ロマン主義をこき下ろしていた頃、日本ではようやくロマン主義の気運が高まりつつあった。それが絶頂に達するのは、日中戦争が本格化する頃である。1942年に行われた「近代の超克」をテーマとした座談会はその象徴的な現象であった。この座談会は、西谷啓治ら所謂京都学派や亀井勝一郎などのロマン主義的文学者たちを集めて行われたものだが、そこでは根拠に乏しい空疎な議論が熱狂的な情熱をこめて展開された。ある意味ドイツの政治的ロマン主義をはるかにしのぐロマン主義的な議論だったわけだが、それをシュミットのような鋭さを以て批判するものは当時の日本には一人もいなかった。この座談会を含めて、日本のロマン主義を本格的に批判したのは丸山真男以下戦後の学者たちである。

ドイツが戦争に負けてロマン主義への批判が出てきたように、日本も戦争に負けて始めてロマン主義への批判が出てきたわけである。ところがドイツは性懲りもなくまたもや戦争を始めて、やはり壊滅的な敗北を喫した。今度は国土の一部を奪われたうえに、国を分割されるような深刻な打撃を受けた。ということは、シュミットに手厳しく批判されたにもかかわらず、ドイツ人は目覚めることなく、依然として馬鹿者でありつづけたということであろう。でなければ、こんなひどいことを繰り返すわけがない。

いまのところ現代の日本人は、少なくとも国を亡ぼすような馬鹿げた動きに走っていない限りにおいて、シュミットの時代のドイツ人程馬鹿ではないといえよう。




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