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カール・シュミット「政治神学」


「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」。これは、カール・シュミットの著作「政治神学」の冒頭の文章だ(田中浩、原田武雄訳)。この文章でシュミットは、政治の本質を簡略に表現している。シュミットはこのように簡潔で断定的な文章を通じて自分の思想を表現しようとする傾向が強い。まず断定することが大事なので、その意味するところは追々説明してゆけばよい、というスタンスである。

この文章の主語である「主権者」という言葉は、権力の主体について語っている。政治の本質は権力にある、というのが近代政治学の大前提とすれば、主権者とは権力の主体ということになる。シュミットが何故権力ではなくて、その主体である主権者から議論を始めるのか、それは追々明らかにされてゆく。とにかく問題なのは主権者なのだ。そしてその主権者とは、「例外状況にかんして決定をくだす者」と定義される。

例外状況とはいかなるものであり、またそれに関する決定がいかなる性質を持つのか、それについても追々明らかにされてゆくだろう。とりあえずここまでの問題は、例外状況に関して決定をくだす者であるところの主権者の存在こそが、政治の本質を規定しているのだとするシュミットの主張を読み取ることなのである。

ではシュミットは、例外状況をどのように捉えているのだろうか。普通の学者なら、ある言葉を定義するに当たっては、実証的な議論を踏まえて厳密な意味内容を確定しようとするところだろうが、シュミットの場合にはそうではない。彼は、自分とは異なる主張を厳しく批判し、それとの対比において自分の主張を浮かび上がらせるという方法を取る。たとえば、ドイツのおける伝統的な保守主義を定義するにあたって、「政治的ロマン主義」を徹底的に批判し、それとの対比において伝統的保守主義の特徴を浮かび上がらせたようにである。

例外状況を定義するにあたってシュミットが用いた戦略は、「政治神学」を徹底的に批判し、それとの対比において自分の主張を浮かび上がらせるというものであった。シュミットによれば、ケルゼンに代表されるような現代の「政治神学」は、例外状況についてのまともな認識を有せず、したがって政治的な決定の重要性も理解できていない。そのような議論を前提にしては、「主権者」の政治的な意義も正しく規定できない。そうした議論との対比において、例外状況とかそれに関する決定の意義を明らかにし、それを踏まえたうえで主権者の重要性を確認する、というのがシュミットの議論の進め方である。

シュミットは、ケルゼンを俎上に取り上げて、現代の政治神学の欺瞞性をあばいている。政治神学という言葉はシュミットの造語らしいが、彼はこの言葉に、政治を理神論的な摂理の体系として捉える見方を含ませている。その味方によれば、政治というものは人間個々人の思惑をこえた客観的な秩序の体系であって、それはあたかも神の摂理を思わせるものであるから、いきおい神学を連想させるというわけである。ケルゼンの政治思想は、この神学のもっともソフィスティケートされたものだとシュミットは考え、ケルゼンを当面の敵手と見立てて徹底的に批判するのである。

ケルゼンの思想をシュミット流に単純化すると次のようになる。政治は国家を舞台に展開されるが、国家とは法律というかたちであらわされた規範の体系と別のものではない。その規範は外在的な力によって国家の外から与えられるものではなく、国家の内部で自然発生的に高まってきた規範意識を国家が形式的に認定したものである。国家は規範をゼロから作り出すのではなく、自然発生的に生じてきたものに国家がお墨付きを与えるだけのことである。こういうわけであるから、ケルゼンの議論には主権者という概念が決定的に欠けている。また彼の議論は自然的な予定調和を前提にしたもので、そこには例外状況という観念もない。なにもかもが自然発生的・予定調和的に進行するわけであるから、決定は大した意味をもたない。決定ではなく追認がものをいうからである。

このようなケルゼンの考え方を、シュミットは規範主義だといって批判し、それに決定主義を対比させる。彼が決定主義の事例としてとりあえず持ち出すのはホッブスだ。ホッブスは、法を作るものは自然の摂理とか普遍的真理とかいうものではなく、権威だといった。権威というのは、個人としての人間に備わっているもので、その人間が国家の外から国家に対して規範を与える。そうした権威ある個人を主権者というのだ。彼がもっとも存在意義を発揮するのは国家が例外状態にあるときである。そのようなときには、自然発生的な秩序の形成などとても期待できない。誰かが新たな決定をし、それでもって規範なり秩序なりを形成しなければならない。

以上のような議論を通じて、シュミットがいうところの例外状態とか決定とか主権者といった言葉の内実が次第に明らかになってくる。政治がもっとも先鋭な形で問われるのは、国家が例外状態に陥ったときであり、その時に強力な個人が現れてまったく新しい決定を行わねばならなくなる。その決定を行うものこそがシュミットの言う主権者なのであるが、それはとりあえずは抽象的な概念であって、実体としては個人であることもあるだろうし、社会集団である場合もあるだろう。要するに例外状態に際して、政治的決定をするものが現れ、その決定に基づいて国家が危機を脱するばかりか、新たな秩序の形成を通じて発展してゆくことともなる、とするのがシュミットの基本的な見取り図である。

ケルゼンに代表されるような現代の政治神学は、国家が安定しているときにしか有用でありえない。それは例外状態を想定できないのであるから、国家がそのような状態に陥ったときにどうしていいかわからなくなり、挙句は無駄なおしゃべりに現を抜かすということにもなる。そういう状況は実はいまのドイツの状況そのものではないか。いまのドイツは歴史上前例のないような状態、つまり例外状態に陥っている。にもかかわらず、有効な政治的決定はなにもなされずに、政治家たちは無駄なおしゃべりに現を抜かしている。実に嘆かわしいことだ。こうシュミットは考えて慨嘆するのである。

シュミットは例外状況における決定を重視するという点では、ソレルらの無政府主義者たちにむしろ親近感を抱いている。ソレルらも、神話的な暴力が新たな決定とそれにもとづく新たな政治体制をもたらすとした点で、やはり決定主義的な視点をとっていた。しかしソレルとシュミットでは、主権者についての見方が大きく異なっている。ソレルは階級としてのプロレタリアートを主権者として考えたのに対して、シュミットは個人の独裁者を主権者として考えた。独裁者は、論理的に不可避であるばかりか、現実問題としても不可欠だとするのがシュミットの立場である。

シュミットは、主権者としての独裁者の意義を主張したわけだが、その主権者の判断すべき内容はブラック・ボックスのまま残した。それが彼をナチスに結びつける動因となったようだ。




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