知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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シュミットのモンテスキューとルソーについての見方


カール・シュミットにとって、政治をめぐる議論のなかでもっとも我慢がならないのは自由主義的政治論だ。民主主義はまだ我慢ができる。民主主義なら、シュミットが主張する主権者の議論とか独裁とも両立する。民主主義から独裁が生まれた歴史的な例もある(フランス革命におけるジャコバン独裁)。ところが、自由主義からは絶対に独裁は生まれない。独裁と自由主義的政治体制は、水と油の関係、というより両立不可能な対立関係にある。そこでシュミットは、ケルゼンとかラスキの自由主義的議論を目の仇にするわけだが、自由主義的な立憲主義の元祖といわれるモンテスキューについては、かなり屈託した思いを抱いているようだ。基本的には批判しながらも、その歴史的意義については一定の理解を示している。

モンテスキューは、教科書風に言えば、三権分立の主唱者ということになっている。三権分立は、今日では立憲主義が成り立つための不可欠な条件として、超歴史的な要請と位置づけられている。それをシュミットは、もう一度歴史の中に位置づけしなおし、その今日的な意義を見直そうとする。それによって、三権分立なり立憲主義というものは、超歴史的な永遠普遍の理念などではなく、歴史に制約された相対的な意義を持つ制度なのであり、したがって歴史的な条件が変化すれば、それにあわせて変化すべきものだ、という立場に立つ。

モンテスキューは、王権が強力だった時代に生きた。そういう時代にあって、王権が専制権力と化し、国民に圧制を行うことを阻止するための便法として権力の分立を唱えた、というのがシュミットの基本的な見立てである。モンテスキューはその権力分立の担い手を、貴族層を中心とした中間層に求めた。「貴族・世襲領主の裁判権・聖職階級及び『法の倉庫』としての機能を持つ独立の法廷、すなわちフランス最高法院は、国家全権に対するかかる中間的阻止物である」(「独裁」田中・原田訳)というわけである。

「モンテスキューは、なお身分的伝統を継承しており・・・王権に、中間的諸権力を対抗させるのである」(同上)とシュミットは言う。要するに王権が専制権力に変化することを制約するためのものとして、歴史的な存在としての中間勢力が一定の役割を果たしてきた、それをモンテスキューは理論化したに過ぎない、と見るわけである。モンテスキューにとっては、王権は腐敗しやすいものであり、腐敗した王権は専制権力となった。専制と独裁とは違う。独裁は、モンテスキューにとっては、ローマの公法上の概念であり、したがって委任独裁としてしかありえなかった。委任独裁は、権力の集中を当然伴うが、その集中は専制主義における権力のバランスの崩壊とは違う、と考えるわけである。

こうすることでシュミットは、独裁を批判する根拠としてモンテスキューを持ち出すのは筋違いだと言いたいようである。モンテスキューの権力分立論は、専制政治をけん制するための議論であって、独裁には当てはまらない、と言いたげなのである。

ルソーについてのシュミットの見方は、かなり狡猾なものを感じさせる。ルソーといえば、社会契約を通じて一般意思の実現をはかることを重視する民主主義の理論家という受け取り方が一般的だが(そしてそれが正しい受け取り方だと思うが)、シュミットはルソーの社会契約論から、独裁の擁護という結論を引き出す。シュミットにとってルソーは、自分の主張する独裁論の先駆者扱いなのだ。シュミットはかねがね独裁と民主主義は矛盾せず、両立可能だと主張してきたが、その理論的な根拠として、ルソーを利用したわけである。

シュミットがルソーを独裁の理論的根拠とする道筋は次のようなものである。人々はそれぞれ自由な意思にもとづいて社会契約を取り結び、自分の個別的な意思を社会全体の意思=全体意思に従属させることを誓う。こうして成立した全体意思は、あらゆる個別意思に優先する。だから、個別意思が全体意思と齟齬をきたす場合には、個別意思は沈黙しなければならない。こうして全体優先の理論的な前提が成立する。その前提の上で、全体意思を担う主権者が独裁者という形をとる場合には、独裁者は全体意思の実現を名目に、自分の好きなことができる。何故なら全体意思は、社会契約の成り立ちからして、個別的意思に優先するものだからである。こうしてルソーの社会契約論は、シュミットによって独裁の母胎と化すわけである。

だがこうしたシュミットの議論は、ルソーの社会契約論を余りにも単純化している、或は歪曲している、と言わねばなるまい。ルソーの社会契約論にあっては、人々が委任するのは自分の全人格にかかわることではなく、人間として生きる上で必要な最小限の条件であったわけだし、したがって全体意思は個別意思の総和なのではなく、すべての成員に共通する普遍的な事柄であるべきだった。そうした普遍的な事柄にあっては、全体の利益と個人の利益が矛盾するということはありえず、したがって全体意思の名のもとに個別意思が抑圧されるということもありえなかった。ところがシュミットは、個別意思の総和が全体意思であるかのように語り、個別意思が全体意思と矛盾する場合には、個別意思は全体意思によって抑圧されてしかるべきだというような方向に議論をもってゆく。これはルソーの議論の前提を不当に歪曲したやり方だと言うべきであろう。

結局ルソーとシュミットの違いは、人間観の相違に帰せられるのだと思う。ルソーは人間性善説に立っていた。だから、個人の意思と全体の意思が矛盾することは考慮しない。黙っていても、基本的な事柄については、すべての人間は一致するものだとの信念がそこにはある。ところがシュミットは性悪説に立っている。人間というものは本来敵同士なのであり、彼らの間に意思の一致などということはありえない。そういう立場に立つからこそ、全体意思と個別意思の不一致をことさらに強調し、そこから全体意思による個別意思の抑圧は当然のことだと結論するようになるわけである。




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