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仲正昌樹「カール・シュミット入門講義」その一:政治的ロマン主義


仲正昌樹はこの本の中で、カール・シュミットの主要著作三点(政治的ロマン主義、政治神学、政治的なものの概念)を取り上げ、テクストに添ってシュミットの思想を解釈している。例によって、学生相手の講義形式を踏まえているので、わかりやすい。

まず「政治的ロマン主義」。仲正は、シュミットがこの本を書いたのは次のような理由からだという。ドイツのロマン主義は、復古的な反革命と結びつくことで極端な保守主義と化し、そのことを通じて保守主義の代名詞のようになってしまった。したがってドイツでは、保守主義とロマン主義とがごっちゃにされることとなった。しかし、本来はそうではない。ロマン主義と本物の保守主義とは違う。その違いをよくわきまえて、ドイツのよき保守主義の伝統を救い出すのが自分の目的だ。シュミットはそう考えて、この本の中で、ロマン主義を徹底的に批判し、それが本来の保守主義とはいかに異なっているか、それを明らかにしたかったのだ、と。

ではシュミットは、本物の保守主義をどのように捉えていたか。それはカトリック保守主義ともいうべきものだ、と仲正は指摘する。カトリックといっても、教義とか信仰といった精神的な要素ではなく、カトリックのもつ秩序形成力をシュミットは評価する。カトリックの秩序形成力が、共同体を一つにまとめる作用をする。そこから安定した秩序が生まれてくる。それこそが本物の保守主義なのであって、ロマン主義とは違う。ロマン主義は、うわついた議論にうつつをぬかすばかりで、実在する秩序とは程遠い。彼らは秩序を生み出すよりは、秩序とは反対の無秩序をもたらすばかりだ。そこからはアナーキーしか生まれない、そうシュミットは言って、カトリックに根ざしたドイツの本物の保守主義を擁護するというのである。

シュミットがカトリック保守主義のチャンピオンとしてロマン主義者に対置しているのが、ボナール、ド・メーストルといった外国の思想家であることが面白い。シュミットはまた、バークをカトリックではないが宗教的な保守主義の理論家として高く評価しているが、彼もドイツ人ではなく、イギリス人である。つまりシュミットが攻撃するロマン主義者たちがみなドイツ人であるのに対して、本物の保守主義者として持ち上げられるのがみな非ドイツ人であることがミソといえるところなのだが、仲正はこのことは問題にしていない。「バーク、ボナール、ド・メーストルといった保守主義の論客たちは、何世代にもわたって継続してきた共同体である『国家≒民族』がその持続性と秩序を保持できているのは、『宗教』との結びつきのおかげであることを強調することで、宗教と伝統を破壊する『アナーキー』な革命勢力に理論的に対抗しようとした」として、抽象的な次元で評価する。

宗教的な保守主義の強みは、実在する秩序に依拠しているところだが、ではドイツにはそうした秩序が本当に実在し、それがドイツ保守主義の思想的な基盤として本当に機能できているのか、ということについては、仲正は懐疑的な見方をしているようだ。シュミット自身は、ポーズとしてはそのような秩序が実在し、それがドイツの保守主義の立派な基盤たりうるのだと言いたいところだろうが、実はそんなものは実在せず、シュミットはただの幻想のうえで、そういう主張をしているのかもしれない。つまり「シュミットの『決断』にも、もはやよって立つべきものが本当はないのかもしれない」とかなり皮肉な見方を仲正はするわけである。

ともあれ仲正が言いたいことは、シュミットが政治的ロマン主義とカトリック保守主義との違いを明らかにし、相対的に後者の評価を高めることをねらったということであり、その際に、政治的ロマン主義へのシュミットの攻撃とか、ドイツのカトリック保守主義の規定のしかたに少しくらいおかしなところがあっても、それはたいしたことではないと思っているようである。

シュミットは、「政治的ロマン主義」の最後に近いところで、「政治的ロマン主義者」と「ロマン主義的政治家」との相違について、かなり長たらしい議論をしているが、そのことについて仲正は彼らしい評価を加えている。「政治的ロマン主義者」というのは、ロマン主義的な発想を政治の現場に持ちこむもので、したがって彼らは「無駄なおしゃべりを続けるだけで、『決断』しない人、できない人」であるわけだが、これに対して「ロマン主義的政治家」は、行動の動機ははっきりしており、それにもとづいて決断できる人だが、それがどういう帰結をもたらすか見通すことができない、ドン・キホーテのような人だとした上で、シュミットは「ロマン主義的政治家」に一定の評価を与えていると解釈している。ドン・キホーテでも、ミュラーのような「政治的ロマン主義者」と比べればはるかにましだとシュミットは考えたわけだが、それには自分も同意見だと仲正は言うわけであろう。

要するにシュミットが「政治的ロマン主義」について長々と議論したのは、「政治的ロマン主義」に思想史上の大きな意義を認めたからというよりは、それとの対比で宗教的な保守主義の意義を明らかにしたかったのだ、と仲正は考えているようである。

面白いのは、仲正がロマン主義をポストモダンと関連付けていることである。「"主体"をテクストの連鎖=エクリチュールの作用として見る発想が、ドイツ・ロマン派とポストモダン思想に共通している」というのだが、要するにロマン派もポストモダンも、確固たる実在的な前提を軽視し、どんな事柄でもおしゃべりの種にして、延々とわけのわからぬことを言い続けるという点では、同じ穴の狢だというわけである。




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