知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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人と人との間:木村敏の日本人論



木村敏にとって「人と人との間」という概念装置は、精神病理現象を解明するための最初の手がかりになったものだが、彼はこれを、日本人のメランコリー親和性の分析を通じて導き出した。木村によれば、日本人というのは、西洋人と比較して非常にメランコリーになりやすい傾向がある。なぜそうなのか。メランコリーというのは、対人関係の気遣いに主な原因があって、他人に対して非常に気を使うことから起こる。つまり、他人に対してすまないことをしたような場合に、自責の念に駆られて意気が消沈する、そうした事態を称してわれわれはメランコリーというのだが、日本人は特にそれにかかりやすい。それは日本人が、規範の源泉を人と人との間から汲み取り、人と人との間に成立する拘束性に基づいて行動しているからだ、と木村はいうわけなのである。

これに対して木村が対称軸として持ち出しているドイツ人の場合には、規範の源泉は人と人との間ではなく、神にある。人は神からの声を内面化し、その声に従って生きている。そういうケースでは、罪責意識というのは、神の命令に背いたという自覚からくる。神の命令に背くというのは、即人倫にそむくというふうに理解されるのである。だから、ドイツ人にあっては、道徳感情は垂直的な方向付けを帯びている。これに対して日本人の場合には水平的な方向性を帯びている、というわけである。

こういわれると、ドイツ人と日本人では、メランコリーの質も違うのか、と問い返したくなる。ドイツ人といえども、メランコリーにかかる人はいるだろうからだ。日本人が、他人に対して取り返しのつかないような悪いことをした、という自責に念に駆られてメランコリーになるとしたら、ドイツ人は、神の命に反したという自責の念からメランコリーになるのだろうか。そのへんの疑問に対しては、木村は正面からは答えていない。ただ、一般的に言って日本人は、非常にメランコリーにかかりやすい一方、人と人との間に強く拘束されている、だからメランコリーと人と人との間という事態とには深い関連があるに違いない、ととりあえず推測しているわけである。

この推測の結果を木村は次のようにまとめている。

「日本人は自然の神秘を垂直線上にある創造主と結び付けることなく、いわば水平面上で、そのつどそのつど現在の自然の相の中に見出した。また人間の本質をも、垂直線上にある神の似姿としてではなく、水平面上における現実の人と人との間柄の動きの中に見て取っていた。個人の存在の基礎を超個人的な一種の超越者に求めるという点では同じであっても、一方がこれを垂直線上に自分自身の中心部の真上に見出しているのに対して、他方はこれを水平面上においていわば自己の外部に見て取っている。これが、前章に述べた西洋的な義務と道徳に対する日本的な義理と人情、あるいは西洋的な罪の観念に対する日本的な恥の観念の、さらには第一章で述べた『われわれキリスト教徒』に対する『われわれ日本人』という集合的アイデンティティの根本になっている差異なのではあるまいか」(木村「人と人との間」)

木村はこの「人と人との間」を、場所のようなものとしてイメージし、風土論と結びつけたりしているが、それは、これを個人(この場合には日本人)にとっての外在的な制約条件として理解しているからだろう。いずれにしても、日本人は、彼にとっては外在的で先験的に与えられているこの「間」という場所において、個人として生きながら、また他の人々とも関わりあって生きている。木村にとって人間が生きるとは、この係わり合いの網の目を生きることなのである。したがって、この係わり合いがうまくいかないと、人間は心に失調をきたす。人間の精神病理とは、木村にとってはとりあえず、場としての人と人との間に、自分の居場所を持てなくなることから起こる、というふうに観念されているといえる。

ところで、日本語には、精神の病理状態を指す言葉として、「気が狂う」とか「気違い」とかいった言い方がある。木村はこれらの言葉を手がかりにして、「気」を巡る興味深い考察を展開している。

ここで「気が狂う」とか「気違い」という言葉の中に含まれている「気」とは、とりあえずは、精神状態としての人間の内在的な状態を指しているように見える。「気分」といってもよい。気分とは個人の精神的な状態を指している言葉だ。その精神的な状態に何らかの異常が生じてしまう。それが精神病の実態だといえなくもない。こうみれば精神病とは、純粋に個人としての人間内部の問題だということになる。そう考えれば、西洋人のケースとの接点も見えてくる。西洋人の場合には、神と直接向き合う個人が、神の命令に背いているという自責の念に駆られることから精神病に陥るというように考えられていた。ということは、精神病を個人的なレベルの問題として考えているわけである。

しかし、よくよく分析してみると、気とは個人の精神内部にとどまる事態をさす言葉ではないのではないか、という疑問が浮かんでくる。気とは、個人の内部に限定されるような状況ではなく、人と人との間に成立するものだと考えられないか。そのようなものとしての気は、「雰囲気」と言い換えられる。雰囲気とは、人と人との間、あるいは人と彼がいる場との間で生じている、個人にとってはある意味外在的なものである。つまり個人とその周囲との係わり合いのあり方を現す言葉、それが雰囲気なのでないか。そうした意味での雰囲気をわれわれは「気」と呼んでいるのではないか。そして、そういう意味での「気」が狂うというのは、個人と彼を囲んでいる雰囲気との間で齟齬が生じているということではないのか。こう木村はいって、気という言葉が人と人との間をあらわす言葉だと結論付けるのである。そのうえで、日本人の精神病が、人と人との間の出来事であるということを、次のように力説するわけなのだ。

「気という概念を有することによって、日本語は精神病を人と世界との間、人と人との間の出来事として的確に捉えることができる。精神病を解剖学的な脳疾患や、図式的な機械論的仮定である『自我』の障害とは考えず、これを人と人との間の現象として理解するということは、人間学的に精神病を理解する出発点である」(同上)

これはつまり、人間を一人だけで生きている存在ではなく、人と人との間で、あるいは人と世界を結びつける場の中で生きている存在なのだとする見方である。人間は、そうした場を生きることを通じて、自分の主体性というものを獲得していく。主体性とは、人間が人と人との間や人と世界との係わり合いの中で、自分を自分として、他者を他者として弁別していく際の、その弁別の担い手となることである。人はその担い手に自らなることによって、人間としての主体性を確立するということもできる。この主体性の確立に失敗することは、だから、個人が人との間、あるいは世界との間で、妥当な関係を結ぶことに失敗することを意味する。精神病は、その失敗が形をとって現れた現象なのだ。そう木村は捕らえるわけである。

ともあれ木村はここで、人間が生きている場を、単に人と人との間にとどめず、人と世界とのかかわりあいの場にまで拡大して考えている。そうすることによって、精神病についての見方を、たんなる人間関係の病理というレベルを超えて、人間と彼の生きる環境との係わり合いの問題と捉える視点が生じているようである。

精神病とは、基本的には、人間のひとつの生き方なのである。それは失敗した生き方かもしれないが、人間と世界との係わり合いの一つのあり方なのだ、そんなふうに木村は言っているのだと思える。だから木村の精神病理学は、人間論のひとつのバリエーションだといえなくもない。




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